涼しくなったのかな、と思いきや昼間は結構温(ヌク)いです。
昨日はいい天気でしたが、今晩から雨、とか。
他のブログですでに紹介されていますが、私もこの調査の公表に立ち会ったので報告しておきます。
『月刊消費者』10月号(すでに発売されています)に日本消費者協会の第9回の葬儀についてのアンケート調査の主な数字が掲載されています。
厳密には2010年3月と5月に同協会の消費生活モニターと同協会会員1024名にアンケートを郵送、回収したもので、回答数は98.4%と他の一般調査ではあり得ない高率の回答率です。
ここが重要ですが、実際の葬儀データは、このうち「最近3年の間に身内で葬儀を行った人は、29.2%、294名」で、この人たちのデータですから114万人の死亡数に対して、しかも予め選んでいた人への回答結果ですから、少し留保すべきでしょう。
(なお前回2007年は1,405名に質問票を送り有効回答が1,125、回収率80%、過去3年で身内で葬儀があったのは410名、で全体の36.4%でした。)
しかし、他に全国規模の信頼できるアンケート調査がないので、このデータが使われることが多いです。
今回は地方別データが発表されていませんが、この294名が10地方に分けられると平均29.4名、07年には中国地方では14名しかありませんでしたから、特殊なデータがはいると全体に影響するので、地方別データは使用しないのが望ましいとされています。
気になる費用から 注( )内は07年調査
①通夜からの飲食接待費 最低15,000円(20,000円)、最高4,500,000円(2,626,368円)、平均454,716円(410,000円)
②寺院への費用 最低10,000円(20,000円)、最高1,888,016円(2,500,000円)、平均514,456円(549,000円)
③葬儀一式費用 最低100,000円(100,000円)、最高5,000,000円(4,500,000円) 平均1,266,593円(1,423,000円)
④葬儀の総費用 最低200,000円(200,000円)、最高8,100,000円(10,000,000円)、平均1,998,861円(2,310,000円)
注:①、②、、③、④を別に質問しており、①~③の合計と④は異なる。
葬儀を行った場所
葬儀専門の式場74.8%(64.9%)、寺・教会9.5%(15.6%)、自宅8.8%(12.7%)
今後の葬儀のあり方(複数回答)
①形式やしきたりにこだわらない 56.9%(62.7%)
②家族だけの葬儀でよい 48.4%(47.4%)
③簡素、派手いろいろあってよい 38.9%(41.6%)
④故人や遺族の意見を尊重する 38.5%(52.3%)
⑤残る家族にすべて任せてよい 35.0%(33.3%)
⑥地域のしきたりに従う 9.9%(12.1%)
⑦葬儀も墓も不要と思う7.3%(6.6%)
以下、省略
注:前回と選択肢の文章が微妙に違うものがある。それゆえ回答が変わったと思われる点もある。
以上、全部ではない。
9月30日のNHK午後7時のニュースは費用、午後9時のニュースは葬儀の希望と分けて報道(19時のコメントは私、21時のコメントは「月刊消費者」の編集者)
19時のニュースは
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100930/k10014303631000.html
すぐなくなるだろう。そこには
葬儀費用 平均で199万円余
家族の葬儀にかかった費用は、平均で199万円と、ピーク時の7年前より40万円近く減って、この20年間で最も低くなったことがわかりました。
この調査は、日本消費者協会がおよそ3年に一度行っているもので、ことし3月から5月にかけて、全国の20代以上の男女1008人が回答しました。それによりますと、この3年間に家族の葬儀を経験した人が、葬儀社や寺院などに支払った費用の合計は、平均で199万8000円余りでした。これは、7年前のピーク時に比べておよそ37万円減り、この20年間で最も低くなりました。
また、「望ましい葬儀のあり方」については、「費用をかけないでほしい」が63%と最も多く、次いで「家族だけで送ってほしい」が40%だったのに対して、「人生最後のセレモニーにふさわしく立派にしてほしい」は2%と最も少なくなっています。これを7年前と比べますと、「費用をかけないでほしい」と「家族だけで送ってほしい」は、いずれも7ポイント増えていて、葬儀の簡素化を望む傾向が強まっています。
さらに、葬儀を依頼する際、どれくらい費用がかかるか業者から事前に見積もりを受け取った人は67%で、7年前に比べて26ポイントも増え、価格の明朗化を求める意識がうかがえます。
こうした調査結果について、葬儀の雑誌の編集長を務める碑文谷創さんは「地域の関係や親せきどうしのつきあいが薄くなるなかで、葬儀の規模がどんどん小さくなっている。費用面に加え、亡くなった家族をどう送り出してあげたいか、考えることも大切だ」と話しています。
もう一つ有名な調査に互助会大手のくらしの友(関東)の調査結果が9月23日の読売に出ています。
こちらは「インターネットで関東1都3県在住で、2009年8月~10年7月までに喪主か喪主に順ずる立場で葬儀を行った40歳代以上の男女400人」が対象。
くらしの友さんは1999年の自社調査データと比較しています。
並べ方が違うので、上記の消費者協会のデータの並びに変えて紹介します。データは平均です。
①会葬者への接待費 657,000円
②お寺に要した費用 526,000円
③葬儀業者への支払い 1240,000円
④葬儀費用の総額 2,423,000円(99年調査に比べ1,244,000円=33.9%減)
こちらに産経のニュースが
http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/100920/sty1009200909001-n1.htm
インターネット上のアンケートは葬送関係には合わないと他で指摘されていましたが、その通りです。
http://funeralservice.livedoor.biz/
これらのデータについてのこれ以上の言及はさし控えます。
自分も報道に関与したので、責任上の報告です。
詳しくはそれぞれを参照してください。
彼岸も終わり、だいぶ余裕が出てきたので久々お邪魔をいたしました。前にコメントとした時にも少し触れましたが、ここ数日の間に私の中である決心が固まりました。それは自分の息子には今の寺の跡を継がせる気は一切ないということです。そして私の口から僧侶になることを勧めるつもりも一切ないということです。最近の日本の仏教に対するバッシングを見ていると、息子に今の寺の跡を継がせるのは親心ながらも不憫で仕方ありません。
親の葬儀を出すのに出費という感覚でしか議論されない今の風潮にも正直疑問を感じます。もちろん今の寺のあり方や僧侶のあり方全てを肯定する気はありません。ただ、寺の経営(営利ではなく非営利)に無責任な立場で、経済的な物差しのみで面白おかしく議論をする今の風潮に甚だ疑問を感じます。この風潮は、間違いなく地方でまじめにやっている寺の経営基盤を根底から崩壊させる要因となるでしょう。これからは、私の代で寺を継承することを止める決心をした分、色々と本音で意見させていただきたいと思っています。
私は以前、比較的いまマスコミで取り上げられる機会の多い官僚社会に対して批判的でありましたが、最近はその彼らにも同情できるようにさえなりました。もちろん寺の世界も官僚社会も一緒の構図があり、一部の僧侶や官僚の不祥事が原因でわきあがる批判が殆だと思います。しかし、陰でどれだけ多くのまじめな公務員の方や僧侶が心を痛めているかについても少し配慮をいただけたらと思うのです。
まず、自分が乗っている乗用車には何百万という金を出費できるのに、なぜ親の葬儀となるとその何分の一かの出費にも不満が出るのかが不思議でなりません。いいですか?親や身内の葬儀ですよ。もちろん経済的な理由で捻出できない方もいるでしょう。そこからも強引に搾取しようとする僧侶や葬儀社の方がいれば批判の対象になると思います。しかし、多くの議論は葬儀の際のお布施を僧侶の労働対価のごとくに見立て、それに対して対価が合っていないという議論に終始しているように思います。また、その論調に沿って額の問題だけが面白おかしく取り上げられているような気がします(決して先生のブログのことを言っているわけではありません)。
都会のお寺はどうか知りませんが、田舎の寺などは全てそれらはご本尊様に上げるためのお金で、それはいわゆる寺の維持に殆どがまわされます。
もちろんそこから住職の給与は支払われるわけですが、その給与に関しては税金も払っておりますし、申告もごまかしようがございません。なぜなら役所の税務課などには檀家の職員もいて、いい意味でも悪い意味でもお寺の財政事情が檀家に筒抜けになっているからです。
もちろん檀家数の少ないお寺であれば、一軒当たりの負担が大きくなるで大変な一面もあります。しかしだからといって法外なお布施をいただくこともできず、殆どの住職は兼業をして、その副業で得た個人の給与を寺の維持に当てているのです。たとえ、ここで批判を受けるようなお布施をいただいたとしても、それがなければ寺自体が維持できない事情を地方では抱えているのです。
もちろん一般社会ではこの景気ですから出費が少ないデフレに即した生活が当たり前の時代です。しかし、そういう時代であっても自分が乗る高級車には出費を惜しまず、親の葬儀には出費を抑えるという風潮が地方にもあります。私にとって、どうしてもこの価値観が理解しがたいのです。
この、無駄なものには出費を抑えるという論理(その意味で言えば親の葬儀も無駄なものなのでしょう)を葬儀の世界にまで蔓延させているのは昨今の葬儀の議論のように思えてなりません。
これ以上言うと、愚癡にしか聞いてもらえなくなるのでこの辺でやめておきますが、日本人はどうしてこうも死者の弔いに対する寛容性を失ってしまったのでしょうか。残念でなりません。
それともう一点納得がいかないこと。先生の前回のブログの記事で、ある檀信徒大会の檀信徒代表の方から「檀家は寺の普請には責任をもつが、住職の生活費までは面倒見切られない」と話すと、数百人という満場の檀信徒から拍手喝采受けたと報告がありました。
私はこの話を聞いて、まさに今は末法の世だと思い背筋が寒くなる感覚を覚えました。それは、住職の生活費まで面倒見切れないという発言そのものよりも、住職がいない寺の普請に責任を持つ言い切れること自体が不思議であるということです。
一体住職のいない寺を普請する意味などあるのでしょうか。住職のいない寺などは建物自体に寺としての価値があるとは思えません。寺は住職がいるから寺なのであって、そこに住職がいなければ単なるハコモノでしかありません。無駄なハコモノ事業に税金を投じることには敏感な世の中なのに、なぜ住職がいない寺に普請などできるのでしょうか。もう寺は単なるハコモノでしかないのですね。
寺は住職がいて初めて寺として機能するのです。要は住職がいなくても寺が寺として成り立つ矛盾が日本という国には存在しているのです。これは間違いなく日本仏教の危機であり、その危機をもたらした責任を我々は重く受け止めなければならないと感じました。
別に私たちも高級官僚並みの生活を保証してくれなどとは言いません。しかし、寺は住職がいて初めて寺となるのであれば、その住職の生活費さえも賄えないというのであれば何故その寺を普請(維持)する意味が出てくるのでしょうか。私には不思議でなりません。
もちろんそれは僧侶が僧侶として役割を果たしていない現実を示唆する象徴的な例なのでしょうが、本当に本末転倒な主張が成り立つ時代に来ていると感じました。それを末法と言わずして何と言いましょうか。
僧侶の存在しない寺という建物に何の価値があるのかを心底問いたくなります。それだったら、最低限度の生活はその寺を支える檀家が保証し(もちろん無条件にとは言いません。檀務の際の布施で賄えばよいのではないでしょうか)、その寺の住職がきちんと務めを果たしてなければ、その時初めてレッドカードを出せば良いのです。そこまで僧侶を毛嫌いして寺の建物だけを維持しようとする人の感覚に首を傾げるばかりです。
私は正直、その構図があまりにも菩提寺に対して無責任な態度に思えてなりません。
もっともっと言いたいことがありますが、もう少し落ち着いてから、冷静に今の寺と檀家が抱える問題について本音を述べていきたいと思っています。
もちろん何度も言いますが、僧侶側の言い分の代弁者になるつもりは毛頭ありません。住職を私の代で止める覚悟を決めた以上は、今の日本仏教の何が問題で何が誤解に基づく情報なのかを冷静に吟味していきたいと思っています。それが、いわれなき誹謗中傷で苦しんでいるまじめな僧侶を救う手立てになると思っているからです。そういう真面目な僧侶が苦しむ現実を見るにつけ、やはり僧侶だけでなく社会の方にも問題があると指摘せざるを得ません。そこに気付いてもらいたいだけです。
もし、今回の内容がこのブログの方針に合わないものであれば先生の判断でご削除下さい。そうであればもうこれ以上の書き込みは控えます。
僧侶さま
本音でのご意見、率直に言っていただきありがとうございました。
長文でしたので、改行と空白行を入れさせていただきましたが、内容には一切手を入れておりません。
このブログの場が本音での議論ができればいいと思っています。
外側から突っついても仕方ないです。
お子さんを後継者にするか決めなくてもいいでしょう。それはお子さんが決定すべきことです。
これまで寺院は世襲制があったから続いてきた面もあるでしょう。しかし、両面があります。
私の友人に多くの世襲の素敵な僧侶たちがいます。彼らは息子ということもあったでしょうが、自分で僧侶になる決意をして後継したのであって、いい加減な気持ちでなったわけではありません。
私は「僧侶」さんの苦労もわかるつもりです。地方の寺の実情は、都会の大きなお寺と大きく隔たった格差があり、多くの僧侶が「寺は生き延びられるのか」という危機意識をもっています。そういう声に直に接しています。
寺院を囲む状況ははっきり言ってよくありません。地方には若者がいなくなり、高齢化率が高いという社会背景もあります。
でも地方寺院にはまだ人間関係が残っています。それは大事にしてほしいところです。
私は住職だけの寺ではなく檀信徒、地域の人と共にある寺として生きる必要があり、また僧侶自身も単独ではなく、僧侶同士のネットワークを作る必要があると思います。
口で言うことは易しく、実行することは難しいですが。
私は宗教も消費されるような今の時代がいいとは思いません。
キリスト教も実態は小さく貧しいのに結婚式では消費され尽くしています。
ファッションであって中身がないのです。
もう守るものはないのですから、自分の身の丈にあったあり方を素直に実践されればいいのではないでしょうか。
仏教寺院批判を一人で受ける必要はありません。
いい寺、いい僧侶はいます。また、悪い僧侶もいます。昔からそうでした。江戸時代から批判され続け、明治維新では数年間とはいえ神仏分離で滅茶苦茶にされたではありませんか。
悪いのは仏教だけのことではありません。キリスト教でもそうです。
悪いことを世界史的規模で行ってきたのはまさにキリスト教です。それに比べれば仏教はまだましです。
私は宗教者を特別な人間とは思っていません。世間が「聖職」に祭り上げ、そして「聖職者にあるまじき」とか無責任な批判をする。社会が悪くなったのは宗教者の所為だと言わんばかりです。
そんなことはありません。
でもつけいれさせるような点は率直に改めていけばいいのではないですか。
先日の全仏のシンポジウムでは時間がなくて取り上げられませんでしたが、「僧侶にも生活がある、ということを言ってくれてもよかったのに」というご意見がありました。
当然のことです。
宗教者は霞を喰って生きろ、などというのはある意味で差別発言です。
宗教者も一人の人間なのですから、特別な能力に恵まれた霊的存在なんかではないのですから(そうだったら逆に怖いです)、同じ地平でものを見て、同じ地平で意見を言うので、いいではありませんか。
倫理道徳的に規範となる生活をしようとして無理する必要はありません。
たまたま宗教に係わった一人の人間として生きればいいと思うのです。
今の世の中の宗教者批判は勝手に宗教者という理想像を作り上げて、そうでない、と批判しているようなものです。
そんな無責任な批判は聴かなくともいいのです。
ご自分が大事にすべきことは大事にすればいいのです。他人がどう言おうと。
私は批判されてなんぼ、で、書くというのは、しかも素顔を晒して書くのは裸体で道を歩くよりも恥ずかしいことをしている、と自覚しています。
自分は自分以上ではないし、批判や非難される点もある。
弱さも曝け出しています。しょうがないではありませんか。きれいごと言っても。
そこに開き直っているのです。
僧侶の方もたくさんいるので、うれしいことに結構多くの僧侶の方がこのブログを見ていただいています。「僧侶」さんも、せめて「僧侶A」というくらいの仮名で結構ですから名乗っていただけるとうれしいです。
私がお手伝いできることがあれば、ですが、呼び出してくださって結構です。
時間さえあれば、いくらでも応じます。
いつも冷静なご指摘ありがとうございます。
先生にはなぜか愚痴にも似た本音でお話できる喜びを感じています。色々本音で思うところが多々ありますが、もう少し時間をかけて冷静に意見を述べていきたいと思います。私にはどうしても、消費者感覚の葬儀という考えに違和感を感じざるを得ないのです。そういうことを僧侶が言うと、単に自己保身や組織擁護にしか聞いていただけませんが、もし私が一般檀信徒の立場であっても同じように思うでしょう。そういう立場を踏まえての是々非々の意見をここでは述べていきたいと思います。今後とも宜しくお願い致します。
遅ればせながら
先日来お話ししていた 日本消費者協会 の「 月刊 消費者 10月号 」がやっとこさ手元に届きました。書店で聞いていた5日というのは東京の取次に入る日だったそうで、それから書店に送られて今日になりました。もうずいぶん旬も過ぎて、その間 物理教師 さんの 速報 をはじめ 碑文谷創 先生もご自身のブログで 一部触れて らっしゃいましたので、うらやましく眺めていました orz…ガックリ。
年明けの本チャン発表を前に、今回の誌面では本当にさわりだけ紹介されています。アンケートデータと解説は…..