アエラが「『お寺』はもういらない」
週刊朝日が「中国はもういらない」
経済界が『お墓なんていらない」
学研新書が『お墓は、要らない』
これらは島田裕巳『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)の題名をパクッタもの。不愉快だ。
いずれも書中では「不要」とは言わず「問題提起」だとし、インパクトを高める手法のようだ。
よく原点から考えるために「サラの状態から考える」という表現があるが、歴史的なものは通俗理解を踏襲せず、客観的に見直すということはあっても、「いらない」からは始めない。
誰だったかな、島田本を読んで「読んでみると、島田さんは不要だという過激なことを言っているわけではない」としたり顔して弁護していた人を何人も知っているが、そんな擁護をする必要がどこにある。
エンターテイメントならともかく、丁寧な論議が必要なのに、それもせず雑駁に展開していながら、こんな無茶なタイトルをつける編集者はだめだと思う。売らんかな、だけで思想がない。
もちろん言論の自由が保障されているのだから、どんな意見があってもいい。個々においてはその意見は尊重されてしかるべきだ。
だが、これらの本、雑誌は、このタイトルに責任をもっていないではないか。
まだ68年の稲田務、太田典礼編『葬式無用論』は、近代主義者まるだしの意見で乱暴な議論展開ではあるが、だが、あくまで己の責任で太田典礼は主張しているので、清々しい。
結果として、「いらない」という判断を下すのは個々であって、強制することでも煽ることでもない。
しかも、これらは客観的に問題を見直したものではない。
理解が乏しく、誤解も少なくなく、とうてい根底的な議論をするための情報としては不足している。
私は「こういうものなら無駄」という議論はするが、結論ありき、あるいは題名で話題をとろうとする、本や雑誌のタイトルはけしからんと思っている。
問題を提起するなら、あくまで自分の意見だが、という謙遜さが必要であるし、タイトルだけ撥ねてどうする。
アエラの記事だが、
相撲協会と寺を同じレベルで論じてどうする。
中島隆信さんの考え方はあくまで一つの見方でしかないし、私はシンポジウムの席上異論を唱えていたはずである。
マスコミは好き好みで原稿を書いてはいけない、とまでは言わないが、あんまり偏るときには、あくまで一つの見方、と断る必要がある。自分のまとめに役立つ論者だけを登場させ、いかにも客観的であることを装うのはおかしい。
大昔のことだがアエラの取材を受けて苦い思いをしたことがある。
その記事では地の文章は私が提供した情報で、私のコメントとされたのが記者の意見であった。ふざけるな、と怒った覚えがある。
大朝日にはいい記者もたくさんいることは知っているが、この記事を書いた記者の何たる無責任なことか。
これは宗教も知らず、脅し記事以外の何ものでもない。
言論の大切さを思えば、こんなタイトルはおかしいだろう。
こうした思考停止を導くようなタイトルをつける自由も確かにあるだろうが、ケシカランと言う自由もあるはずだ。
大げさなタイトルにしては中身が薄く、視野が狭い、という点は共通している。
一種の退廃がここにはある。
と、私は思う。
今年になって「戒名は、自分で決める」という本をご出版されてます。
推測ですが、保坂俊司氏の「戒名と日本人~あの世の名前は必要か」の内容をポイントを抑えた上で異議を唱える本です。章立てや項目などの重複が目立つのも頷けます。学者らしく客観に徹した記述でした。
私は島田氏の学者としての本気度を感じています。
当初、「葬式は、要らない」の不徹底を感じましたが、散葬や直葬などは葬儀ではないという議論もあるなかでは、この題もウソではない。
現在までの葬儀を相対化し、多様性を真正面から論じているとも評せると思われます。
近くの図書館では、いまだに予約件数が50を超えています。大阪市立図書館では、236件の予約数。
「高度に文明化した社会では死者にまつわる慣習は合理化される」
松濤弘道氏の著作「世界葬祭事典」の中に、このユングの言葉が引用されていました。
私自身はまず因襲と虚礼をなくし市民生活の改善を図る、簡素で厳粛を旨とした市営葬儀の拡充を急いで欲しいと考えています。
疑問・・・・。戒名は自分で決めれるのだろうか・・・。生きている間に覚悟を決め仏道に精進することを誓えればいいんだろうけど・・。葬儀を不要な人が戒名が必要なのだろうか・・・?。
先はどうであれ・・・、あんまり合理化された葬儀って・・ヤだな。
今回の記事を読んで率直に感じたこと・・・。
自らの出世のために冤罪を捏造する検察、ジャーナリストとしてのプライドを捨て数字(売上)のみに固執する編集者・・・そこに見られる構図は一緒で只々呆れるばかりです。現代日本に巣食う品位とモラルの地盤沈下はやはり否めません。戒名本来の意味も理解せずして、したり顔で戒名論を語る宗教学者がいることもまさに一緒です。仏教の教えを少しでも学んだ者であれば、戒名は自分でつけられるものでないことは多くの仏教学者や現役僧侶がすでに指摘しているところです。このことからもやはり今は末法の世だと思います。仏教の勉強もしていない宗教学者の著書がこれだけ数字を稼ぎ、それに毒され踊らされる読者の方を生み出し、葬儀という本来厳粛であるべき儀式が面白おかしく取り上げられる風潮(世論)が生まれるわけですから・・・。もちろんそれと同じくらい勉強不足で意識が欠落している僧侶が跋扈していることも原因なのですがね・・・。厳しい見方をすればどっちもどっちという世界の話です。
そしていつもそのツケを払わせられるのが、先生のような誇り高きジャーナリストと、一部のまじめな僧侶であることも残念な結果です。しかし、彼らのために無駄な体力を消耗することにいい加減疲れるときがあります。それでも我々は衆生済度の重責を担うべきなのでしょうか。まだまだ未熟な私は時々心が折れそうになります。
いけませんね・・・また愚痴っぽい内容になってきてしまいました。しかし、社会の知性派はけっこう冷静に見ていると思います。最近の感情論に終始した現状批判は、時に節操のなささえ感じて悲しくなります。日本人が大切にしてきた知性とモラルはどこへいってしまったのでしょうか。私もそういう方がたに失笑されないような意見を次から述べていきたいと思います。
>「人間の死」にはその国の文化が集約されているといってよいでしょう。その伝統を見直す中で、激しく変容する時代にふさわしい 新しい葬祭文化のあり方を考えたいと思います」<
発刊直後の雑誌の背表紙に印刷されていたものですが・・。葬儀に携わる研究者の方、メディアの方。多くの業者。みんなの想いがひとつになればいいなぁ。どこに立つかが問題でしょうけど・・・。
葬送(あるいは宗教)の「合理化」というのは、「迷信の排除」っていう意味で使われるのが通常ですね。
結果として外形上「簡素化」となる場合が多いかもしれません。いきなり「合理化」=「簡素化」という理解では恣意的に見えます。
外形から見て金がかからないとなりますが、心が置き去りにされているわけではない。
むしろ迷信に支配されていた状態との比較で考えればわかりやすいかもしれません。
死後の戒名が成仏の条件だという説明には置き去りにされた何ものかを感じます。
仏教に空の観念を教えてもらいました。
すべて(言葉の意味さえ)が変わるものであり、本質などというものはないと思います。
無批判に伝統にすがるのも執着であり、これを否定しようとしているのが現状の葬送の変化であるかと思っています。
>葬儀に携わる研究者の方、メディアの方。多くの業者。みんなの想いがひとつになればいいなぁ。どこに立つかが問題でしょうけど・・・。
一番大切な方々が抜けてるような…?
失礼しました。