「危機」ということ

コメント広場が賑わい、私もそれにコメントしていますが、ここで私の考え方の一端を言っておきます。

「家族の危機」
「仏教(でなくても何の宗教でもいいのですが)の危機」

と言われ、私も発言していますが、その問題はかなりの深刻な問題ではあるのですが、けっしてそれ以前がよかった、問題がなかったというわけではないのです。

「イエ制度」下の家族には大きな問題がありましたし、また、それを必要とした社会的背景もなかったわけではありません。
戦前の二・二六事件や五・一五事件の背景には、近代化にまい進する社会が同時に農村の危機を抱えていたということがあります。その上に公娼制度も成り立っていました。家族の生存のため間引きも行われました。

明治後期以降の日本仏教の実態は、そのイエ制度を利用して、それに乗っかってきた部分があり、当然、現在はそのときの綻(ほころ)びを受けた部分があります。

高度経済成長は確かに民衆に食い扶持を与えましたが、その急激な社会変化はさまざまな問題も起こしました。
今でこそ問題とされますが、セクシュアルハラスメントやパワーハラスメントの温床でもあり、日常化していました。
またその経済成長の結果が地域コミュニティの崩壊をもたらしたことも事実です。
また、「生の謳歌」主義とも言うべき社会風潮が死を隠匿したことも事実です。
高度経済成長からバブル景気に至る社会による歪みが今さまざまな問題をよんでもいるのです。

また、崩壊した地域コミュニティも懐かしい共同体だけであったわけではなく、そこに多くの偏見や差別、強要があったことも事実です。

今「無縁社会」という言葉がNHKが取り上げたことで話題を呼んでいます。ジャーナリズムとして大きな貢献をしたと評価しています。
そこで指摘されたように、今という時代が、人々の生きる基礎の仕事がとても安定性を欠いており、その結果、誰もが「無縁」となる可能性を内包し、現にそうした事実を生み出している、とても危険に満ちている社会でもあります。

また、政府も地方自治体も「自殺防止」を声高に叫んでいます。
確かにそこには社会的にドロップアウトしたことが追い込んだ部分もあるでしょう。でも、「防止」を強く言えば言うほど、「自死」は駆逐されるべき対象であり続けるのではないでしょうか。
そこで論理として「自死」は否定されているのです。
自死の多くを、私は本人の意思を決定要因とは見ていません。これは軽々しく言えない個別、固有の問題です。
しかし、自分の貧しい知見と体験的考察でしかありませんが、人間を追い込むものは社会だけではないのです。

近代医療が「病」を敵視し、その結果、「死」を忌避し、死を医療の敗北ととらえ、結果として人間の生と死を物理的な生命にのみ還元し、いのちのもつ危うさと尊厳をトータルにとらえるべき視点を失った、ということを反省する必要があるでしょう。

私は断固としてがんを撲滅対象とは見ないし、自死を撲滅対象とは見ません。
(医学としての発達は携帯電話の進化同様、それはあくまで科学的分野のことで、死生観とは接続してはいないのです。)
私の個人的な体験を言うならば、
このところ同級生も毎年がんで死んでいます。
若い時から友人を自死で失っています。

私は自死もがんによる死と同様に人間として引き受けざるを得ないものと理解しています。
そのような危うさをいのち本来が抱えているのです。
不老長寿は人間の理想であってはいけないのです。

今「孤独死」の問題が取り上げられていますが、「孤独死」そのものを悪いと言ってはいけないのではないか、という意見もあります。
この言葉自体がきちんとした概念規定をもち得ないでいることも事実です。

私は、一応ですが「単独死」と「孤独死」を分けて考えています。一応分けただけで、その間は限りなく近接しているのですが。

単独世帯が増加しており、これからも増加する以上、「単独死」は避けられません。
しかし、社会との関係を自ら切るのはともかく、切られて生きている人が、死亡に至り、その死が長く発見されず、腐敗し、骨化されるままであるのは、人間の尊厳として避けられるようにしたいと思っています。

孤独死の善悪を言うのではなく、死亡は止められないかもしれないが、それが朽ちるまであり、朽ちた状態が晒されるのは避けたいと思うのです。

昔の「風葬」とは異なります。
かつての「風葬」は葬法の一つで、自然の中に遺体を置くことによって、他の動物がそうであるように、自然の中で遺体が骨化して、その魂は山や海や、あるいは彼岸へと同化したり、昇華することを願ってのものでした。
そこには送り手がいたのです。

もとより人間は、送り手がいないまま街や戦場で遺体を放られたままのことも、けっして珍しいことではなく、たくさんありました。
ただ、それを私は無念と思います。

人によっては何も今の時代、これからの時代に対して「危機」という意識をもっていないかもしれません。
但し、私は危険に満ちていると思っています。
しかし、それは「理想」を描いて、それと対比してのものではないのです。

「人間的」という表現はさまざまに理解されていることでしょう。
私は、人間はあるがままに生きることが許されている存在であるし、それでしかないと思っています。
それを大切にていねいに見ていきたい、と思うのです。
それは諦めることだけではなく、時として怒ることであったり、泣くことであったりします。

うまく表現されませんが、強制されない、強制することのない人間的感情を大切にしていきたいと思うのです。

まとまったものになってはいないでしょう。破綻もあるでしょう。でも率直なことを書かせてもらいました。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「「危機」ということ」への3件のフィードバック

  1. いつも冷静な分析に頭が下がります。
    でも、最近は私はもっと単純に考えた方が核心をつけるのではないかと思う時があるのです。
    葬儀とは亡き人を葬る儀式であって、決して死体の処理であってはならないと思います。
    その違いは何なのかと考えると、それは遺族の葬儀の関わり方で決まるのだと思うのです。
    人を弔う宗教や文化は、長年の試行錯誤によって現在に形を残す言わば人類の叡智の結集とも言えるでしょう。また社会機能とも言えると思います。
    先生もご指摘のように、この種の批判は今の時代に始まったことではないのでしょうが、やはり以前と比べて質が違ってきていると思います(敢えて低下しているとは言いません)。
    私のような僧侶がそういうことを言うと、安易な自己保身に映るかもしれませんが、私は仏教だろうとキリスト教だろうと神道だっていいんです。人の死はやはり宗教に任せるのが一番だと思います。
    ようするに、人の死は結局分からないことなのですから。分からない事実からこそ、宗教は社会的にもその一大事を引き受けてきたのです。そこにデフレ時代に即した経済観念やら、少しかじっただけの仏教教理を持ち込むから、人の死が軽くなってしまうのです。
    少なくとも宗教者は、その訳の分からない葬儀という弔い事に携わる意義があり、それが批判されるのは宗教者が宗教者として見られてなく機能もしていないから起こり得る批判であって、葬儀そのものに対する批判でもないと思います。
    しかし、その問題の本質を見えにくくしているのが葬儀とお金の問題だったり、葬儀と教理の問題だとふと感じる時があるのです。
    葬儀に携わる僧侶の役割を労働対価として換算しようとしたり(葬儀社を対象にと言うなら分かる)、葬儀に費用対効果的尺度をあてはめようとすること自体が、問題を分かりにくくしている側面は絶対にあると思う。
    だって、葬儀の喪主となる機会なんて、一生のうち何回あるでしょうか?
    確かに懐が痛む事情がある人もいるでしょうが、自分の親を送るのに自らの懐の事情以前に孝(感謝)の気持ちが優先して然るべきではないでしょうか。
    私が言いたいのは、良いか悪いかは別として、昔は自らの葬儀のために葬儀代を蓄えたうえであの世に逝ったり、親の葬儀に備えて普段の生活を切り詰めて有事に備える感覚が美徳であったということです。
    それを美徳とできた社会は何と健全であったことか。その社会の変化がもたらす心の荒廃の方がよっぽど危機だと私は思います。
    私も以前はこのような復古主義的考え方に嫌悪感を露わにするタイプの人間でした。
    しかし、経験を積めば積むほど、いわゆる昔の日本人が大事にしてきた保守的とも言える美徳が今の世に必要とされるべきだと感じるようになりました。
    今の日本の葬儀が取り巻く問題は、僧侶の側にも意識とモラルの低下があり、一般の側にも同様な意識のモラルの低下があるということです。これは、やはり社会の影響も多々あるのではないでしょうか。
    分かりやすい例えを出せば、別に僧侶の側も人の子ですから、お金のない方から布施を搾取しようと思う人間などいないのです。
    しかし、どう考えても優先順位が違うだろうという感覚で親の葬儀を考えていたり、まるで「あるのに出さない」にも似た給食費未払い現象が親の葬儀であっても見られたりで、そういう一部の人間の不義理な対応に憤りを通り越したやるせなさを感じる時があるのです。
    別に親の葬儀をつつがなく勤めること自体、法の強制力があるものではなく、当然法で規制するものでもありません。
    しかし、身内の高齢者の死をひた隠し、年金不正受給を意図的に企てる日本人がいることを思うと、やはり日本人全体のモラルの低下を問題としないと駄目なような気がします。
    今の人たちは親の葬儀も大事だが、自分たちの今の人生、これからの人生の方がもっと大事だと言わんばかりに葬儀の価値をお金に換算しようとし過ぎます。
    その立場は今の経済環境を考えれば分からなくもないですが、昔の人はそのようなことを恥と感じてとてもじゃありませんが口にすることさえ憚りました。それこそ自らにその力がなければ借金してさえも親の葬儀を勤めあげる美徳があったといいます。
    別に借金をしてまで葬儀を行えとは言いませんが、その意識さえあれば弔いの文化が不毛な議論の犧牲になる必要もなかったのです。
    もちろん先生のような緻密な情勢分析も必要ですが、その一面だけが強調されてしまうと、もっともっと核心部分にある我々日本人(もちろん僧侶も含む)の意識とモラルの低下といった問題が抜け落ちてしまうような気がしてならないのです。
    そういう意味で、私などは時代に左右されない弔いの儀式というものは必要で、その文脈において私は昭和時代の価値観に原点回帰するような大胆な提案を日本の仏教教団はすべきだと考えています。
    それがたとえ時代錯誤だと揶揄されても、それを覚悟のうえで未来を見据える三世超越の道環を果たすべきだと考えます。

  2. 碑文谷先生
    文中にある「二・二五事件」は、もしかして「二・二六事件」では?

  3. こえちさま
    ありがとうございます。
    雑駁ですからこうした間違いたくさんあるかと思います。
    直しておきます。

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