TSさん
早速ご意見ありがとうございます。
私は死や葬送に対するタブーが崩れたことで、いい面と悪い面が極端に出て、その結果が「多様化」という現実だと見ています。
今7割以上がいわゆる「親の死」ですが、夫婦世帯も多いことから3割は「配偶者の死」でもあるのです。
少数の近親者で、懇ろに送られることもできるようになったのはプラスです。
何せバブル景気の末期には「社会儀礼」以外のものにあまり目が行かず、7割の本人を知らない、悲しんでもいない人たち向けに葬式を行い、遺族の喪の仕事はひととおりの儀礼が終わった後に、一人仏壇の前で営まれることが少なくなかったのです。
葬儀とは死者の尊厳と死者本人への弔い(弔いは特に宗教用語とみなくてもよいでしょう、死者本人と出会った人が死者を強く想うことです)と悲しみの中にある近親者の想いへの共感、これがあるべき本質である、と思うのです。
その結果、何を学ぶかは、参加した者それぞれのことであり、「いのちは有限だと悟る」「自分の生を見直すきっかけ」というようなことを学習効果することを目的として行われるものではないのです。
葬儀というのは単純に考えるべきものなのです。
しかし、参加者全部が悲しんでいないというのは言いすぎで、本人への切実な想いを抱えて参加していた人もいるのです。
私も個人的に深い想いを抱いていた人の葬式に、親族でも会社関係でもないので、長い一般会葬者の列で葬式へ参加したという経験がいくつもあります。
周囲で死者とは全く関係のない私語がひそひそと語られるのを耳にして不愉快な気持ちを味わうことが少なくありませんでした。
今、相変わらず「家族葬」は人気ですが、これにより弔いから排除されることになった、親族以外の近親者が悔しい思い、やるせなさを抱えて、「排除の論理」に「違うのではないか」という想いを抱くことが少なくありません。
他の近親者を排除して、親族だけで簡単に安く死体処理を行おうとしている例も少なくありません。
友人の葬儀社や僧侶に訊くと、むしろそのほうが多いかもしれない、と言っていました。
バブル期までの葬式は異常でしたから、それに回帰しろとは言いません。
私も「死者」も「遺族」も顧みることがなく進行されていた当時の葬式をさんざん批判してきました。
確かに経済的にも明らかに困窮度は高まっています。高齢者世帯で一人が亡くなると、残る家族のその後にかかる費用が見えないだけに、出費を抑える傾向にはあります。
そこで葬儀社や僧侶が「ご供養ですから」ときれいな言葉で更なる出費を促し、混乱情況の中で言うなりになり、後から「騙された」と思う人も少なくないようです。
また、他方では、簡略化、個人化の流れに便乗し、自分たちの相続分を増やそうとして、なりふり構わず、安く、簡単に処理してしまおう。その方が人間関係の煩わしさがなくてよい、と思う家族も増えています。
葬式費用の生前準備ですが、これは今のほうがかつてより増えているように思います。
結果として会葬者からの香典と故人の葬式用の貯えで支払いは済み、残った費用は孫らの旅費等に振り向け、それでも残ったお金で寿司を食べに行くというケースは少なくありません。
もちろん支払いに困る人も増えています。
このところ葬儀社各社が嘆くのは、葬式費用の支払いをせず逃げられたケース。
そういうこともあるので、遺族の要求を控えめに誘導するケースもあるようです。
形態では判断できない難しさがあります。
僧侶でも神職でも神父でも牧師でもいいのですが、葬儀の規模や形態に関係なく、「死者への想い」「近親者の気持ち」に寄り添って、単純にそれだけを考えて葬式をしてほしいし、係ってほしいと思うのです。
死とその後のプロセスにおいて宗教者の係る意味は小さくありません。
その係りにより葬式の方向性や近親者の方向性も変わることがあります。葬祭業者に問題があればそれを正す力をもつのは宗教者です。
また、宗教者の係りに、明らかに気が入っていない、誰の葬式でも変わらない作業をした、と近親者なりが感じたら怒りだすでしょう。
仮に葬式が済むまで黙っていたとしても、そのとき感じた不信は、後から関係を立て直すことがほとんど不可能なところまでいくでしょう。
葬式とは(一部の者を除き)近親者にとっては一大事なのです。お金の高によるのではなく。
これは特にキリスト教の牧師に言えることなのですが、信者の人生を教会内の人生にだけ限定して語ることが見られます。その人の人生をまるごと引き受けるのではなく。
近親者も参列者も、「知っている本人とは違う」と大きな違和感をもつことが少なくありません。
葬式というのは宗教者にとっては未信者集団に囲まれる時でもあります。
そのため、おじけてあたりさわりのないように勤め、その結果、何か気の抜けた儀礼になってしまうことも少なくありません。
これは特に仏教では真宗系、曹洞宗、キリスト教ではプロテスタントに言えることですが、
宣教、伝道、布教の貴重な機会だとばかりに張り切って、法話、説教で教えを聴かせようとする方がいます。
葬式の場というのは、それぞれが宗教的背景をもつし、それを隠す必要はないのですが、そこにある「固有の人の死」にあくまで固着すべきで、宣教や布教の機会とするなど「スケベ心」をもってはいけないと思うのです。
葬式の場を取り仕切ることだけでは存在意味がないとばかりに、法話、説教に力を入れても、それは参列者の耳には入りません。
中には敵意を感じる人もいます。「葬式を利用した」と思われかねません。
宗教者は、大切な人(いかに人生で疎まれようが)を「送る」人の想い(あるべき想い)を受け止め、それをサポートすることが肝要なのではないでしょうか。
プロテスタント的に言えば、その人のいのちを神に委ねる、仏教的に言えば、成仏を祈る、浄土へ導く、あるいはその他の宗教にあるように「親神の本源に返す」ことなのでしょう。
いずれにしても、近親者は教義の細部は知らないが、死者の行方、行き先を宗教者を介在させ委ねているのです。
これは本来は大きな信頼がなければできないことです。
また、仮に信頼を得ていない場合にあっても、それだからこそ真剣に目の前にいる死者に向き合い祈ることであると思うのです。
死者を軽く見ている人ばかりであったとしても、真剣に祈ることで、その死に向き合うべきことを態度で示すのです。
(「祈り」の意味の多義性はおいておいて)
遺体はすぐエンバーミングをするのでなければ、ドライアイス程度では腐敗の進行を遅くするだけです。
エンバーミングをしてもあまりに長く遺体を留めることは一般国民の社会的風俗としての遺体に対する感情に違和感があります。IFSAではそれゆえ50日という期限を設定しています。
葬式は物理的には遺体を火葬(または埋葬=土葬)に処すると同時に、それに至る看取りの延長線で死者と近親者(血縁関係にこだわらない、実質、死者の近くにいる人)の想いに寄り添い、送るという行為です。
死者を放逐する、忘れることではなく、心の中に刻み付けるプロセスの始まりでもあるのです。
本人と遺された生者の関係が死によって揺らいだとき、これを再構築することのサポートです。できるかどうかはわかりませんが、努めるということです。
日本仏教が葬祭に携わったということは恥ずべきことではなく、その民衆一人ひとりの死、その生きた歴史を大切にしてきたということです。それ故に厚い信頼が得られたのです。
今から言えば、そうかな?とも思えるのですが、こんなに長く、こんなに日本全国の末端まで仏教が浸透した、というのは、死者に係る重要な存在だったからではないでしょうか。
そのことが認められた証であるし、民衆がいのちを大切に思っていたからだと私は考えています。
いま、いのちの問題に敏感に係っている方の中に僧侶が少なくない、というのは、こうした伝統を背景にしているからだと思うのです。
時代を批判することは容易です。
批判は気づきを与えてくれるかもしれませんが、それ以上ではありません。
宗教者一人ひとりのおかしな、安直な言動が宗教者不信を招いたのであれば、宗教者は一つひとつの葬式で信頼を回復していくしかありません。
仏教は死者のための仏教ではない。
という声を聴きます。
あたりまえです。
それだけで仏教寺院が存在するわけがありません。
でも小谷みどりさんのアンケートにもあったように、今なお死者供養は寺に大きく期待されている分野です。
そこにあるのは儀礼のみではないのです。
具体的な死者と向き合うことなのです。
この信頼は、僧侶が死者供養作業だけに関心をもっていては得られない性質のものです。
実際に宗教者がやれる範囲というのはしれています。
そう大したことができるわけではありません。
あまり過大視するのは禁物です。
世間も叩き易いからと僧侶批判を行い、自分を安全域に置くのはおかしいです。
僧侶皆がベンツに乗り、クラブで高い酒を呑んでいるわけではないのです。そんなのほんの一部分に過ぎないのです。
僧侶へのレッテル貼りはそろそろ止めましょうや。
私が危惧するのは超高齢社会にあって、死を疎む風潮が弱くないことです。
これは現実の社会、家族の難しい情況が強いている部分もあります。
多くの場合、死を疎むには疎む理由があるはずです。そこを注視せず非難だけでは問題は解決しません。
話は変わって
実は先日、キリスト教関係の雑誌「ミニストリーministry」(季刊、2010年10月発行)が「みんなで葬儀―愛する人を天に送るとき―」という特集を組み、そのため取材を受けました。
文句は2つあります。
1つは取材したのに私の自分の発言部分のチェックなしに発行してしまったことです。取材したら、取材先に関係する点だけでも原稿の確認をするのは義務だと思います。
もう一つは「自死」の扱いです。私の関係した部分ではありませんが、大きな問題を感じました。
それは「自死」を葬儀で公表すべきか、という質問への答えです。
長いので途中から引用します。(p23)
確かに、「どんな場合でも事実に向かい合うことでこそ、それを乗り越えていくことが可能となる」という意見は正しいと思いますが、だからと言って、事実の公表へとすぐに結びつけることは適切ではないかもしれません。むしろ、その事実によって大きな痛手の中にある者が、本当にそれを受け止めていくには何が必要かということへと教会は働かなければなりません。また、葬儀もその継続的な牧会の中にあると考えて行われるべきです。
「自死」そのものは、神様の御心に沿うことではありません。しかし、一般的に「自死」を肯定しないことと、実際にそこに起こった死に向かい合うこととは区別して考えるべきです。(後略)
これを書いた人は性格が悪い人ではない。このような考えをする牧師は多い。僧侶にしてもそうだろう。
だが、私は上記下線部を言い切っていることが大いに不満である。「自死」についてはそれに至るプロセスも固有であり、いい、悪いの評価をそもそもすべきことではないのだ。
かつて「自死者」の葬式を行うことを拒否した牧師も僧侶もいた。
また葬式をやっても「いのちを粗末にしてはいけない」と死者を鞭打つような説教や法話が語られたこともある。
その時代から言えば多少の進歩が見られる。
しかし、けっして一人間(いちにんげん)が判定、評価してはならないことだ。
宗教はこれをやすやすと乗り越え、余計なことを言う。
こういう「善意」らしいもののもつ危険性にもっと敏感であっていいと思う。
>死や葬送に対するタブーが崩れたことで、いい面と悪い面が極端に出て、その結果が「多様化」という現実だと見ています。
タブーが秩序維持機能を持っているとしたら、この崩れは無秩序化を表し、多様化の様相を呈しますね。無秩序化という過程を通さず、精神文化の再編成はできないかもしれない。世界は狭くなり、好まなくても新しい視野が眼前に出現するのが今の時代なのかもしれません。何時の時代もタブーが破られて新しい世界が来るのでしょう。
再編成の時には、いつも古が教訓になり、取捨選択がなされます。
晒葬への回帰もその流れのひとつなのでしょう。やがて収拾されます。
死や葬送に関する議論さえ以前はタブーであったものが、敗れられるのは管理人さんの著作も同じ流れにあります。この点で島田氏らと同じであり、渦は大きくなる因をなしていると思います。それら著作への図書館における予約数がいまだ多いのが結果していると言えるでしょう。
>葬儀というのは単純に考えるべきものなのです。
タブーの存在を仮定するなら、葬儀は文化の一表現ともいえそうです。
単純に考え単純に答えを出すなら、「排除の論理」を増幅するだけです。
どうせ答えが出ないにしろ、複雑なものを複雑なまま、歩み寄り悩んだ結果で十分ではないでしょうか?人間のすることに完全などありませんが、悩みの共感はあり得、ここに赦しもあるのではないでしょうか。
上のことに理解が及べば、
>他の近親者を排除して、親族だけで簡単に安く死体処理を行おうとしている例も少なくありません。
葬送を行なう人たちの所作に「死体処理」などという言葉はでないはずです。
「親族だけで簡単に安く」というのは、あかの他人に伝えた「言葉」からの「判断」なのでしょう。心の中が見えるはずがないし、わかるとしたら傲慢です。
>友人の葬儀社や僧侶に訊くと、むしろそのほうが多いかもしれない、と言っていました。
「葬儀社」と「僧侶」!
現場で見送りをする人に配慮があれば、どんな形であれ(最も安いのをお願いしたとしても)彼らの葬送を「死体処理」という表現をするものなのでしょうか?
立派な(高額な)葬儀をしてもらいたい。このような希望の持ち主にはそうなのかもしれません。
現在の葬儀批判の一端がここにあるような気がします。
どのような豪勢な葬送であっても、葬儀は「死体処理」の一表現に過ぎません。大山誠一氏が、その著書「天孫降臨の夢」で、「儀式は所詮お芝居である」と言う言葉を使っていました。「所詮」とはいうものの「お芝居」という言葉は深い。
葬儀においてもこの言葉には一考の価値あると思われます。
>かつて「自死者」の葬式を行うことを拒否した牧師も僧侶もいた。
これもタブーの機能に縛られていた時代のお話ですね。
>宗教はこれをやすやすと乗り越え、余計なことを言う。
こういう「善意」らしいもののもつ危険性にもっと敏感であっていいと思う。
聖職といわれる宗教者にひとつの期待があるゆえの一文なのでしょう。
しかし、日本人の宗教への興味は尽きません。
一億皆宗教者といっても過言ではないように思います。昨今の葬送のあり方の多様化がそれを示しています。
出家など願ってもいないのに結婚もできず清貧を余儀なくされる人がいれば、
例えば、妻帯し給料を貰い(年金はどうなのだろう?)、他者を害する危険性の忌避より便利さを優先し車さえ運転する僧侶もいます。(こちらはどういうわけか出家いるといっているが、「戒名」という言葉同様、言葉の意味は変遷することを思えば私の考え違いかもしれない。)
聖俗の逆転現象も発生している。
「善意」らしく語られようと浅はかな善意であるかそうでないかの区別がついているのではないでしょうか。それがお布施の料金意識を含む、葬送の多様化に表現されているのだと思われます。
蜆さん
「葬儀社」と「僧侶」!
私はこういう言い方を偏見だと言っているのです。
私は現場に立ち会っている、私が信頼する葬儀社、僧侶と深い関係を築いてきたし、これからもそうするので、こんな鬼の首をとったような表現は許し難いです。
単純に考える
ということは、そこに今まで生きてきた人の死があり、それを取り巻く近親者がいる、という原点で考えるということです。
さまざまな個々の死があるわけで、それ全てを決め付けることはしません。
「死体処理」
を私は否定的ニュアンスで使い、警告しているのです。
そういうしかない悲しむべき現実があるのであり、何も大きな葬式をせよ、とは言っていないのです。
蜆さんは何か理論のための理論を展開していませんか。
私にはそのように思えるのです。
自分はこう思う、とかご自身の考えをストレートに出されるなら、そうなら議論にお付き合いもしますが、僧侶や葬祭業者に対する先ほどのような偏見は私がもっとも嫌うものです。
私も一般の方とのお話はしていますが、彼らのように現場にいる人の話はとても参考になります。
あなたの言う大山誠一という方は聖徳太子はいなかったを唱えた歴史学者という方がいたということしか知りません。また本も読んでいません。それ以外の方がいるとしても私は存じ上げていませんのでコメントはできません。
例えば、以降は何を言おうとしているのか理解できません。
「晒葬」は初めて目にする言葉です。私は少なくとも眼にしたことはありません。
もう少し丁寧に、他人のブログではなく、ご自分のブログがおありなのですから、そちらできちんとご自分の意見を述べられたらよろしいでしょう。
私はそう思います。
議論というのは相手をある程度理解してなされるもので、揚げ足取りで喜んでいるかのような方とは私はしたくありません。
客観的に議論を見ることで自分の気持ちが見えてくる時もあると思います。ここで以前かなり独善的な論を主張した者の一人として、また愚癡のはけ口として場を汚した者の一人として、今回はお詫びの意!?を兼ねて一言残させていただきます。
冷静に考えると、私は蜆さんのような方の主張も分かるような気がするのです。葬儀の要不要という論点のみで考えても、正直どちらの立場も尊重されて然るべきという気持ちがあります。
ここでのお二人の議論だけ見ても、先生のご主張される内容と、蜆さんが反論する内容の背景にあるもの全てに、それぞれの説得力が感じられ、頷ける部分も多々あります。
また、蜆さんのご主張を理論のための理論の展開としてしまえば簡単でしょうが(これは先生のような議論の当事者という意味ではなく、今回の私のような野次馬的な視点でとい意味です)、私のここでの主張なども最初から「葬儀ありき」の理論の展開と疑われてもおかしくないと考えさせられました。
ただ、結論が異なる相反する立場のお二人の意見であっても、客観的に見て共通していると思える部分は、その立場立場において真剣に人の死に向き合っている体温が感じられるということです。
人それぞれの価値観や経験値の違いによって、それぞれの異なった結論が出てきても仕方ない部分はあろうかと思います。しかし、私がここで最も批判したかったことは、その出てくる結論そのものが異なることよりも、その個々の結論に至るまでのプロセスのなかで、あまりにも人(身内)の死と真剣に対峙したことがない主張があまりにも多いということです。
つまりそれは、人の死や身内の死に対して、人としての体温があまりにも感じられないことを意味します。それは時に身内を失った悲しみよりも経済的な事情が優先されたり(もちろんそれらが全て悪いというわけではない)、故人よりも当事者(遺族)側の事情のみで葬儀の進行がなされたりで、その部分に感じる違和感が私個人としては解せなかったというだけです。
そこに人の体温にも似た思いが見いだせないと、たとえ私と同じ結論を有する方であっても、恐らく私は怒りにも似た感情を抱くだろうし、逆にそこに人の体温にも似た思いさえ見出せれば、葬儀の形など二の次であってもいいような気もするのです。
その意味で言えば、たとえ私が葬儀重視派であっても、そこに思いが見出せない葬儀であれば逆に異を唱えると思うし、そこに思いが見出せる家族葬であれば、それを遺体の処理と言うことは決してないと思うのです。つまりそれは葬儀の要不要が議論の核心ではなく、葬儀の意味自体を真剣に問いたいという思いそのものに支えられた感情なのかもしれません。その意味でお二人の議論はかなりの共通点を見出せるのではないでしょうか。
要は、葬儀が要か不要かという結論が大事なのではなく、その結論に至るまでの経緯の中で、どれだけの思いを亡き人にはせることができるかが重要なのだと思います。同じく葬儀を執行する立場の僧に対しても、そこに思いがなく儀礼の執行に当たる同志がいれば、恐らく私はその僧侶に対して批判の目を向けるのだと思います。また、葬儀不要を唱える人が目の前にいても、そこに十分納得足りえる死者への思いがあれば、私は最終的にその人の思いを組んで自らの意志を封印するかもしれません。
私もここでのお二人の議論を見て、葬儀という亡き人を見送る場面において、何が一番大切なのかを改めて自覚できたような気がします。個人の感想といったレベルの書き込みで恐縮ですがお許し下さい。