若い時の話

このところ若い時の自分について考える時間があります。
今の自分を退化した、あるいは衰弱していると見ている人がいることは充分に知っているつもりです。
おそらく破綻していると見る人もいるでしょう。
そうした評価はそれで受け入れています。
自分でもそうかもしれない、と思うところがあるからです。

これでなくてはならない、という見方は突き詰めるとないように思えてきます。
自分を封印したつもりが、時々冗舌になっているのは考えてみれば滑稽な話で、これも老化なのか、それとも退廃なのか、自分でもよくわからなくなっています。

若い人に頼んでいるのは、こいつは自分で考えることができなくなったなと思ったら、即座に言ってくれ、ということです。
自分ではよくわからないらしい、ということは周囲を見ての感想です。
でも、もっと前におまえは終わっている、と言われるなら、それはそうかもしれない、と思います。

醜悪さを曝け出す結果になるかもしれませんが、一度は過去の自分に向き合う必要があるように思っています。
幸いにもなのかどうかわかりませんが六十数年生き延びた者としての責任かなと思います。
今までもやっときたと思っていますから、これから何が自分の身に起きても不思議ではない、と思っています。
数年前、自分がまだ息をしているということをとてつもなく不思議に思い、それは今でもそう思っています。

私の原風景の一つに、寮の一室に一人で居ることに耐えられなく、ほとんど無一文で、一人で、新宿の街を意味なく目的なく歩き続けたことがあります。
自分を拒絶しているような新宿の猥雑さが妙に居心地がよかったのです。
渋谷、池袋、銀座、上野はさっぱりわかりませんが、今でも新宿に目隠しされてどこかに放られても、目をあければどこいらにいるかは見当がつけられるつもりです。それほど馴染んだ街です。
新宿には40年以上通っていますが、様相は相当変化しているはずなのに、何か同じにおいを今でも感じています。

齢を重ねることで寛容になると言われますが、それは一般的な話であって、感覚の切れ目にぶつかると、気持ちが落ちるところまで落ちるか、感情が破裂し怒り出すか、いずれにしても周囲に迷惑をかける、という困った癖は治っていないようです。

きょうは12月11日。今年はなぜか12月8日をぼんやりと過ごしたことを悔いています。その日であることを忘れていたのですから、自分にとってはショックでした。
個々の自分にとって大切な人の命日を覚えているわけではないのです。命日を覚えるよりも、その人間の体感を確認していたい、と思うのです。
私が生まれる前のことではあるのですが、私にとってあの戦争は何だったのか、を考えることなしに私の出発点はなかったのです。

今でも、私は日本人の葬送の歴史をあの大戦抜きでは語れないのです。あの時代に生きた人が死者に寄せた想いは戦後の日本人にさまざまな形で影を落としてきた、と感じています。

さまざまの宗教や思想が虚弱であることを思い知らされたのはあの大戦で、どうして無力で気弱であるだけではなく、簡単に煽る側に立ってしまったのか、それを「平和」という文字だけではなく、内側から問わないといけないというのが私の課題というか、それを抜きには何にも言えねー、というのが、私の原点であるわけで、それは未だによくわかっていないことなのです。

私は今も戦争責任については軍部や当時の政治家を非難するより、それに乗じたマスコミや知識人や宗教教団を非難するのですが、それが自分の中でまだ手ごたえを得るまでにはなっていません。

今日本の社会は、高齢化率(65歳以上人口が全人口に占める割合)は、2009年10月1日現在、22.7%で、今や「高齢化社会」でも「超高齢化社会」でもなく「超高齢社会」という未知の体験をしているのです。
現在は死亡者の半数以上が80歳以上の人の死が占めています。
この80歳代、90歳代の人たちが大戦の最前線にいた人たちです。ですから青年期に最も多くの死者を出した世代でもあるのです。
そしておそらくは最も過酷な被害者であったことも事実でしょう。
しかし加害者であることを強いられることが多かった世代でもあるのです。

個人の責任を問うているのではありません。私は自分が当時まだ生まれていなかっただけで、その時代に生きて何ほどのことができたかは全く言えないのです。自分はその集団に属していなかったことをもって思想的な安全地帯にいるわけにはいられなかったのです。
それが「戦後派」と言われた現在60歳代、70歳代の者に突きつけられたどうしようもない問題だったのです。

私は別に同じ世代の者たちが、その問題の呪縛から抜け出せなかった、と言うつもりはないのです。おそらく考える幅は相当大きなものがあったであろうし、今でもそうでしょう。
しかし個人的な思いとして言わせてもらうなら、私はその呪縛の中にまだある、ということです。

私は若い時代に無力感をさんざん味わっただけではなく、ずっと後退戦をしてきたと思います。おそらくその中で「裏切り者」と言われてきたのも相当あったことは事実です。それを弁解するつもりもありません。

私だけの見方ですが、おそらくその後沈殿し、発言をやめた者の中にはその想いを抱え続けている者はけっして少なくはないだろうと見ています。

きわめて個人的な話でした。ご勘弁を。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「若い時の話」への3件のフィードバック

  1. 昨日社内で勉強会をしました。エンディングノートについての・・です。その中で、忙しい毎日に埋没して(させて)しまっている「過去」についての話をしました。人には誰にも知られたくない過去の一つや二つ、忘れたことにしてしまいたい過去の一つや二つは必ずあるのでは・・と。エンディングノートは未来に向かって歩くためのものではありますが、過去から学ぶものは沢山ありますからその過去と一度しっかり向き合うことの大切さを伝えました。葬儀の仕事に就いたとき、兄弟は驚き、親族は「世が世なら家の家系は・・」と嘆き、自分の選んだ仕事が一般の人にどのような印象を与えているかを思い知りました。「SOGI 120号」を送っていただいたばかりでしたので、私にとっての{SOGI」の話も伝えました。「SOGI]はわたしの葬儀社勤務時代を支えてくれた唯一の教科書でした。当時の葬儀社の多くは、先輩の仕事を盗み先輩と同じように仕事ができるようになれば一人前(それがまちがっていても・・・)そのなかで、「SOGI」の中でお葬式を学び、伝え、今考えると「SOGI]に出会わなかったら・・今の自分はきっといないだろうと思えます。出会うことがなければ多分自己満足の世界に浸りきった自分が出来上がっていたと思うとぞっとします。創刊20周年本当におめでとうございます。そしてありがとうございます。これからも志のある葬儀関係者にとっての唯一無二の「SOGI]を楽しみにしています。感謝の気持ちで一杯の私です。

  2. >「SOGI]はわたしの葬儀社勤務時代を支えてくれた唯一の教科書でした。当時の葬儀社の多くは、先輩の仕事を盗み先輩と同じように仕事ができるようになれば一人前(それがまちがっていても・・・)<
    …そーなんです。イヤ、そうでした。
    開式 ちんドンじゃん 引導・弔辞・弔電・喪主挨拶・読経・焼香・・閉式・なんてことでした。
    ナムカラタンノー・・・これ何てお経です?ノーマクタラギャタヤー・・これは・・・・?
    なんて・・。お寺さまにうかがってました。今では・・・今回の差定はどうされます・・?なんてのたまうんですよ。・・わたしが。
    全ての宗旨にあかるくなりました。
    碑文谷さま・藤井さま・ 横山さま・・・。
    お寺さま・・感謝・感謝なのです。
    私事ですが・・父が倒れました。大変さを痛感しています。父にまた教えられました。

  3. michikoさんにはご協力いただき感謝。
    umezhoさんとは思わぬ出会い。うれしかったです。その節はたいへん失礼しました。

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