ご無沙汰でした お詫びになが~い資料を添付します。

1月も後少し、たいへんご無沙汰です。

自分で今しておかなくてはならない、という作業があり、12月から年末年始も休むことなく仕事をしていました。

今月の19日で65歳。前期高齢者の仲間入り。
こんなしんどい作業は今しておかないと、やらないままになってしまう、という脅迫観念に駆られてのことです。

おそらく後年、これきりの作業しかできなかったのか、と嗤われてもいい、と腹をくくっての仕事です。

自分の力不足をこれでもか、と思うほど痛感しました。

さて、お詫びに、最近した講演のレジメを付けておきます。
これはある宗派の若い僧侶たちへの、私のラブコールです。
最も実際はいつもながらの脱線でしたが…

「急変する葬儀事情」がタイトル、少々長いです。

1.生と死に関するデータ  *参考まで 

(1)出生・死亡等    注:(  )内は1970(昭和45)年

・出生数は1071000人、合計特殊出生率1.37(参考:19494.3219692.13)、誕生は29秒に1人

・死亡数は1194000人、死亡率(人口千対)は9.5、死亡は28秒に1人(10年)

・死因別死亡数

第1位悪性新生物343千人、第2位心疾患18万1千人、第3位脳血管疾患122千人、第4位肺炎11万2千人、第5位老衰3万9千人、第6位不慮の事故38千人、第7位自殺31千人、第8位腎不全2万3千人、第9位肝疾患16千人、第10位慢性閉塞性肺疾患1万5千人(09年)

・死産数は27000胎。

・死亡の場所 病院78.4%、診療所2.4%、介護老人保健施設1.1%、助産所0.0%、老人ホーム3.2%、自宅12.4%、その他2.4

・自然増減数は△123000人。婚姻件数は706000組、離婚件数は251000組。

(「2010年人口動態統計年間推計」「平成21年(2009)人口動態統計(確定数)の概況」

 「人口動態統計年報」)

(2)高齢化の現況  注:(  )内は1986(昭和61)年

・平均寿命、男性7959歳、女性8644歳(「2009年簡易生命表」)。

 0歳の余命。 それまで半分は死ぬということ。そこまで生きられるとは決まっていない。

65歳以上人口2,901万人、うち女性747%。高齢化率227

(高齢化社会 高齢化率7% – 14% 高齢社会 14% – 21% 、超高齢社会 21% –

75歳以上人口1,371万人、総人口に占める割合109%(「2010年版高齢社会白書」)。

百歳以上44,449人、うち女性868%(住民基本台帳による)。

・世帯の構成

単独世帯1196万世帯22.3%(18.2%)。夫婦のみ世帯1069万世帯、22.3%(14.4%)。夫婦と未婚の子の世帯1489万世帯、31%(41.4%)。ひとり親と未婚の子のみの世帯323万世帯6.7%(5.1%)。三世代世帯402万世帯、8.4%(15.3%)。その他の世帯323万世帯、6.7%(5.7%)

・高齢者のいる世帯2013万世帯、41.9%(26%)。

*高齢者のみの世帯961万世帯、47.7%(23.9%)、単独世帯23%(13.1%)、夫婦のみ世帯29.8%(18.2%)、親と未婚の子のみの世帯18.5%(11.1%)、三世代世帯17.5%(44.8%)、その他の世帯11.2%(12.7%)(「2009年国民生活基礎調査」)。

 死期は選べない。誰もが死ぬがその最後はわからない。最後まで元気な人も、身体がボロボロになる人も認知症になる人も事故に遭う人もいる。
 それはもはや本人の責任ではない。

(2)人の死で起こること

「葬式」を「社会的な儀礼」もしくは「イベント」と考えるから、「葬式なんていらない」という考えが出てくる。

1960年代の高度経済成長期以降バブル景気が終焉するまでの葬式が異常だった。

(葬式の会葬者の7割が「亡くなった本人を知らない人」が占めた。つまり「悲しんでいない人が圧倒的多数」の葬式)

葬式の原点は「人の死」。

それも「知らない人の死」ではなく「親しい人、近親者の死」。

「自分が愛している人の死」

は、耐えられない悲しみ、あるいは一時的にその悲しみを封印せざるを得ないような、あるいは一切の感情表現を抑えこまざるを得ないほどの悲しみ(グリーフ)をもたらす。

「死者を悼む」というが自明ではない。人間が真の底から死者を悼むのは、その故人をよく知っているから。

死別の悲しみ(グリーフ)というのは感情だけの話、心や気持ちだけの話ではなく身体も傷む。自分をコントロールできなくさせる事例も少なくない。

死者のことを個人的によく知らない場合は、一瞬「かわいそうに」と同情はするが、めったに「死者を悼む」ことができるほど人間は上等にはできていない。

また「悼む人」「悲しむ人」は家族とはかぎらない。家族関係が壊れていた場合、その家族は死者に冷淡。「悲しまない家族」が増えている。

いろんな意味での「仲間」はときとして「家族以上」に悼み、悲しむ。

葬式とは「死者を悼み、悲しむ人によって営まれる心的プロセス」に本義がある。

「愛する人の死に出合った人による、せざるを得ないプロセス」が葬式。

80歳を超えた人が死亡する数が総死亡者数の5割を超えている。

「もう充分にがんばって生きた。もうご苦労さん。ありがとう」

というような葬式もある。

人間が家族を作ったり、仲間を作ったり、関係の中で生きており、そのあり方は多様。何も「泣くお葬式」ばかりではなく「感謝するお葬式」もある。

その死者を囲む人間関係がもたらすもの。

葬式で「死者の尊厳」が大切なのは、その人が世間的に成功した人であるかどうかに関係なく、その「いのち」がかけがいのないものだから。

「死刑囚の死」だって「当然」ではない。どんな人にも尊厳はある。

家族がその尊厳を無視するならば、代わって仲間や宗教者や葬祭従事者がその尊厳を守ろうとするだろう。そして、そこにも「葬式」はある。

(3)増える家族葬

「家族葬」は「近親者による葬儀」のこと。

1995年以降、密葬に代わり「家族葬」という用語が登場、2000年以降に全国的に市民権を獲得してきた。家族葬にも幅があり、家族数人だけによるものから、家族・親戚による30人内外のもの、それに友人・知人を加えた5060人前後のものまである。死者本人をよく知る者を中心としたこぢんまりとした葬式を呼ぶ。(『現代用語の基礎知識』)

「義理の人やらなんなりがたくさんきて、会葬者に気遣って、遺族がおちおち悲しんでいられない葬式なんかいやだ!」

という気分が拡がる。

従来の大げさなイベントのような葬式のあり方に違和感を覚えていた人が多く、以前は「仕方がない」と「人並み」のお葬式をしていたのだが、周りが「家族葬だらけ」になると、「ではウチも家族葬でお願いします」となる。

すると今度は「お葬式なんてやらなくてもいい」と「直葬(ちょくそう)」にはしる人も出る。地方では隣り近所の手前「直葬」はさすがに少ない。しかし自宅で葬式をしなくなったので増える要素はある。都会ではこれもみるみる増加。

(3)地域による差があったのが統一化

地域共同体が主催する葬式、葬式の進め方は地域によって少しずつ違っていた。

北海道の函館、東北一帯、関東の北、静岡の一部、長野、熊本の一部は、いまでも葬式の前に火葬をする「骨葬(こつそう)」方式。

名古屋以西関西地方では、火葬場で遺骨を拾う(拾骨)ときにはほんの一部の遺骨しか拾わず、ほとんどの骨は火葬場に置いてくる(部分拾骨)。

関東では、ほとんど全部、灰状のものまでほうきで集めて骨壷に収める。

全国的に見ると、骨壷の大きさは3種類ある。関東の骨壷がいちばん大きく、大阪の骨壷がいちばん小さく、九州ではその中間の大きさの骨壷。

葬式が変わったのは高度経済成長期の都市化によって葬祭業者に頼むものになった。

郡部では、それでも地域ががんばっていたが、いまや郡部も過疎化で人は少なくなり、高齢化で手伝うことのできる人も少なくなり、そのうえ葬式は自宅で行われず斎場(葬儀会館)でするようになり、すっかり葬祭業者に依存するようになった。

言うならば、地域主体から葬祭業者主体になり、遺族は「消費者」になった。

しかし「消費者」になった遺族、まだまだ慣れていないし、近所の葬式を手伝う習慣もないために葬式というのはどういうものかわからず、また、身内の葬式は平均すると9年に1回しか体験しないので、「葬式がわからない」状態に陥ってしまっている。

いまでは地域の高齢者すら葬式がわからなくなってしまっている時代。

「打ち合わせと言われても何をしたらいいかわからない」「こっちは素人なのだから」という声。

でも遺族しか知らないことがある。

「故人をどう思っているか」「故人をどんな感じで送ってあげたいか」

これらは葬式を考える最も基本となることで、遺族にしかわからないもの。

「どういう葬式をするか」ということはこの遺族の想いの方向性によって大きく変わる。

(5)葬式は無用か必要か?

『葬式無用論』という本が出されたのは昭和43年(1968111日、発行元は「葬式を改革する会」市民団体が自主制作、自主販売した。

世話人は3人で

医師の太田典礼(19001985

日本泌尿器科学会名誉会員の稲田務(当時、京都大学名誉教授)

元代議士の東舜英

稲田は、昭和39年(1964)に朝日新聞「声」欄に投稿。

「死者を葬うのは、人間として当然の気持ちであり、それに何らかの形式が伴うのも自然であろう。一般に儀式が立派であると、自然にふんいきが盛りあがり、感情も高められる。その代りに、感情が不自然に高まると、素朴な情からかけ離れてしまうこともある。私は盛大な葬式に対して疑いを覚える。そこで私の死去の場合、ただ死亡通知を出すだけに決めた。それを受け取られた人は、心の中で私を悼んで下されば満足である。世間なみの葬式は行なわない。これは儀式的なことをやめるためと、会葬していただいたり、その世話をしてもらうなどの手数をかけないためでもある。すでに死んでいる私には、葬式は意味はない。ほんとうは生存中に一度でも多く、一人でも大勢に会いたいと思う」

「それら(葬儀、法事、盆行事等)を盛大に行うのが、死を重んじているように思われている。これが大きな思いちがいである。葬式を簡素にするのは死を軽んずるのではない。死を尊ぶがゆえに、それの通俗化を排するのである」

と述べている。

「故人の顔の広さを誇示するための具に供されるような、告別式の通知を受ける身になってもみよう。たとえイトコ、ハトコであろうが、顔も覚えないほど疎遠している者を、死んだとて遠地から呼び迎えるなど、得手勝手すぎはしまいか」

「葬儀に膨大な費用をかけたり、多数の人々に貴重な時間をムダにさせることは考えねばなりません」

「葬式がお祭り騒ぎに扱われているのを世人は不思議とも思わず、当然の人間の終えんの行事としている」

「宗教における大伽藍、法衣、仏壇等は無用のものである、それが親鸞の教えである、葬式でも、知らぬ人が名刺を置きに来る。主人よりも夫人の葬式が盛んである。こんな葬式は無駄である」

「私たち庶民は原則として葬式をしないことにすべきである。家族がなくなった時は、早朝または夕方など、めだたない時間に家族と近親者だけで葬送を行ない、しばらく遺骨を自宅に置いて、式がある時に招くべき人びとだけに知らせて、弔意を表してもらうというのが私の案である」

世話人の一人である東は、

「何故? 自分の場合だけ、そんなに告別式を拒否せねばならぬのか、それは自分にもよくわからぬが、元々そんなにむつかしい理由なぞあろう筈もない。ただ無性にこのまま誰にも知れないうちに死んで行けたらの気持ちだけである。出来ることなら人知れぬ奥山で野たれ死が一番よいかとも考える。

 おそらく広い世の中には僕と同じような心境の人も他に大勢あるに違いないが、ただそのような人達は僕のように頑固でなく世間の風習に逆らわないで去って行くのではないかしら。(中略)

 僕が死んでも多少でも淋しく感じるであろう者は、家族や兄弟姉妹の他に、数少ない友達くらいであろう。それだけのことなら火葬の前に、お経でも簡単に読んで線香を焚くだけで充分ではないか」

東の提案は今「家族葬」あるいは「直葬」となって現実化している。

「迷惑をかけない」と葬儀、告別式を併せて1時間という簡略化は、彼ら無用論者の意見を採用するかのように簡略化された。

(6)葬式仏教

 日本では「葬儀」と言えば仏教、というのがあたりまえのようになっていて、僧侶の仕事は葬儀を行ったり、お墓を守っている人、という印象が強い。このことを揶揄して「葬式仏教」と言われる。

 歴史的には、江戸時代の中期以降、幕府が宗門改めを行い、どの家もがどこかのお寺に属し檀家となるよう定めたことからきている。

 しかし、それ以前に、主として室町時代以降、仏教が民衆の中に入っていき、寺と民衆の関係が、特に「死」を媒介に強い結びつきをもったことが幕府に無視できないものとなっていたことがある。

 もちろん僧侶は「仏法を信じて仏道を行ずる人」のこと。平易に言うならば「仏教の教師」あるいは「仏教の修行に専心している人」のこと。「葬送の専門家」ではない。

しかし、日本では、中世まで顧みられなかった民衆の死に対して、民衆の中に入った僧侶たちが、この民衆個々のいのちを弔う価値のある人の死と認め、死者の周囲の人々と共に、弔い、葬りを鄭重に行ったことが民衆に強い印象を与え、信頼を得た。

また死は終わりではなく成仏あるいは浄土への往生であるという信仰が深く浸透した。

 こうした民衆の寺への深い信頼が、人の死という厳しい現実において仏教を求め、寺の墓地への埋葬が安心をもたらした。

 僧侶は葬送だけを専門にするのではなく、広く仏教を教える人だが、葬送を通じていのちの行方を熱心に示し続けてきた人であることも確かなこと。

 これまで日本人の約95%の人が仏教で葬儀をすることを選んできた。しかし平成19年には全国平均89%になり9割を割る事態になった。これからは仏教での葬送があたりまえのことではなく、選ばれる事柄に変化していく。

いのちにどう相対していくのか、お寺もまた問われている。

(7)寺の再構築

寺は、住職のものではなく、檀信徒、地域のもの。

それゆえ「公益法人」

檀信徒、地域の人の「いのち」や「暮らし」に無関心でいては寺はない。

維新の神仏分離令以来、宗教はすべからく内面化して教理仏教と生活仏教の乖離をもたらした。

仏教は葬祭仏教化したが故に民衆に根付くことができたが、特に土着化によるところが大きかった。

「布教」と「葬祭」が分離してとらえられ、葬祭が手段化するのであれば定着はしないだろう。

 おそらく個々の固有のいのちに対峙することが、教学的に一致できるようにすべきだし、寺は現実に暮らす人個々に寄り添う必要がある。

 現実に、人々に学ぶことなくして寺の活動はないものと思う。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「ご無沙汰でした お詫びになが~い資料を添付します。」への3件のフィードバック

  1. 宗教における葬儀の意義は

     25日、 碑文谷創 師のブログでは師が近頃若手の僧侶を対象に行った「急変する葬儀事情」という講演のレジュメが掲載されていました。それを読んでいて、あるブロックに改めて考えさせられました。
    (6)葬式仏教
     日本では「葬儀」と言えば仏教、というのがあたりまえのようになっていて、僧侶の仕事は葬儀を行ったり、お墓を守っている人、という印象が強い。このことを 揶揄して「 葬式仏教 」と言われる 。
    …(中略)…
     日本では、中世まで 顧みられなかった民衆の死…..

  2. 謹啓 センセにはご健勝のこととお喜び申し上げます。先般、地域の社会福祉協議会主催の集まりで・・・葬儀についてお話をさせていただきました。20名くらいですけど・・。実際の話をさせていただきました。葬儀は確かに変わってきています。核家族化、地域の担い手の減少etc,でも、大切な方と今生のお別れをするのがお葬式・・・いまや、来るべきお葬式を考えるのはタブーではなく、必要な準備なのです・・・。『もっとお葬式を、葬儀社を探求してほしい』ってお願いしておきました。ちぐはぐな時間でしたがお顔がとっても近くて少し緊張しました。お昼を囲んで少し砕けたお話も・・・・。有意義な時間をすごさせていただきました。感謝!

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