数日前、若い人(私よりもという意味)たちと話していたら興味深いことが聞けた。でも地域や業者によって違うらしく、みな同じではないのだが。
その一つ、「一日葬」が増えているか?
これもまだ全体の傾向とは言えないらしいが。
小型葬になると「知っている人たちだけによる葬式」となるものだから、とかく通夜も葬儀も参列者は共通になる傾向がある。
同じメンバーで同じようなことをやることになるので、どっちか1つでいいではないか、となる。
葬儀では出棺・火葬が欠かせないので、省くとなると通夜。
そもそも同じようなこと、と思われるのは、さまざまな原因が考えられるだろうが、その一つに、死というのがプロセスではなく「点」と認識されることが増えているということが考えられる。
かつての日本の慣習的な考え方によれば
死もプロセスならばそれを受け入れる過程も想定されている。
だから死亡と判断されても、即、完全な死者と取り扱うのではない。
生と死の境界線上に置いた。
「死者」としたのは、枕直しをし、生者と逆方向に寝かせ、とすぐ生きていた状態とは変えたことである。
翌日には納棺というのも、現在のようにドライアイスを入れて腐敗の遅延を図るとは別で、死者の身体を洗い、浄土あるいは成仏のための修業に出かけるとされた死者としての服装を整えるためである。
他方、生者としたのは、死者のためのご馳走を準備したり、遺族が喪服を着ないでいる。始終だれかが死者の傍らにいて、万が一に生き返るかもしれないと注視していた、ことに見られる。
一方で死者である事実の認識を強制するかと思えば、他方では生きているかのように扱う。
これは近親者の心理を大事に扱ったからである。
他人には容易に納得できることでも、死の事実を受け入れることは近親者にとってはかなりの心理的ストレスが要求されることである。
だから葬式は可能なかぎり慌てない。慌てるのは死体が腐敗過程で変貌し死者の尊厳が失われる恐怖、いたたまれなさが近親者にあるからである。
一方で手をかけ、一方で急ぐのは、心理過程と死体の腐敗過程の双方に配慮してのことである(エンバーミングという手が今ではあり、腐敗進行を停めるので慌てる必要はなくなる)。
日本人の風習としては通夜までは「故人」ではなく、まだ喪に服している期間ではない。通夜までに親戚はともかく一般の人が香奠をもってくるなどは「完全な死者」とみなす、遺族の感情を逆なでする行為として忌避された。
通夜を過ごし、もう決して生き返ることがない、という断念を強いるように葬儀は設定された。葬儀は死者を生者たちの世界から死者たちの世界へ送り出すために行われた。
通夜までは半分の死で、そのため重要なことは死者と生者たちが親しく交わることである。だから他人は通夜には介入してはいけない、特別の時空間なのであった。
通夜までは、近親者は服装を整えるとかの他人への気遣いは一切不要で、ただ死者と一緒に過ごすことのみが大切なこととされた。来るのは家族同様の付き合いをもった親戚であり、深い結びつきをもっていたお隣りさん止まりの範囲であった。
葬儀の日、家族は喪服に着替え、死者を送り出す作業に専念するのであった。
通夜と葬式が同じようなもの、というのは同じように扱ってきた見識のなさが招いたものである。
「葬列」がなくなり、「葬儀、告別式」であったものが、全てを1時間以内におさめるために「葬儀・告別式」になり、今度は一般会葬者が通夜に移動し、その結果「通夜・告別式」になり、業者が「通夜式」なる言葉を作ってしまった。
これが「通夜」と「葬儀」の違いをなくした。
その結果が「一日葬」である。
「お客さんが希望するようになって…」と言うのだ。
その方は代わりに出棺前の遺族だけのお別れの時間を長くとっている、と話していた。
最初から「一日葬」を売り込む業者もいる始末。
はたまた遺族の死の見切りが早くなったのであろうか。
おっと、ほかの話に流れてしまった。
70年代までは葬儀の場所は8割が自宅だった。
それが90年代以降、斎場(葬儀会館)葬が急激に増加し、今や自宅葬は2割を切ったのだが、どうもこのところまた自宅葬が少しづつであるが出るようになったらしい。
80年代までは地域コミュニティによる葬儀が多かった。葬式となると近所の人が世話をしに家に押しかける。
これにノーと言ったのが遺族の女性たち。他人に台所にまで入られ、しかも自分は遺族なのに働かねばならない。そんなのいやだ、と斎場葬が増えた。
しかし、もう葬祭業者が世話をするのが普通、人数も少ない、祭壇も大きくある必要はない。それでは自宅でできるじゃないか、となったらしい。
生活の中に死が戻るというのはいいことである。
また最近の斎場(葬儀会館)はそうした需要に応えて、一時の大人数収容を競うのではなく、「自宅のような」場所の提供が流行している。
あんまりぶれると修正が入るらしい。
寺でも「寺で葬式を」という声が出てきた。、
葬儀社が一日式を勧めるならば、それをただ「省略のための省略」で終わらせるのではなく、その空いた時間をどう過ごすことがより良い葬送に結びつくのかということを丁寧に考え合わせた上でご遺族にアプローチしていかなければならないということなのでしょうね。
「簡略化」そのものが悪いのではなく、言ってみれば「短絡化」こそが問題にされるべきなのでしょう。直葬問題と根は繋がっているようです。
大変ご無沙汰しておりました。地元の大きい行事の責任ある役をおおせつかってしばらくネットから離れておりました。
今さらながら、最近我が宗派でも話題のテーマを貼り付けます。
>http://www.asahi.com/national/update/0210/TKY201102100549.html
同じような構図は昔からあったと承知してますが、法人口座まで葬祭業者(もちろん一部の業者さんであることは理解してます)が管理するようになっていたとは驚きました。
本来法人会計の責任者である住職の手から通帳が離れている時点で違法性も疑われるし、ここまで来ると世の末といった感じがします。
私が遺族の立場であったら、間違いなくこのような構図に組み込まれて身内を送ることを拒否したくなりますね。
もちろん我々僧侶の側の意識改革を前提として言うことですが、そういう一部の業者さんの蛮行をぜひ業界あげて正していただきたいと思います。
もうこれは坊主が悪いか業者が悪いか!?といった足の引っ張り合いをする次元の問題ではないと思います。まさに、我々故人を送り出す側全体の問題としてとらえるべきだと思われます。
我々の世界の持淨努力も然りですが、お互いの世界の浄化を目指して頑張ってまいりましょう。しわ寄せが遺族にいく構図は絶対に間違っています。
先ほどは、今回の記事に目をすることなく、いきなり書き込みをしてしまいました。
そういう意味では順序が逆だったかもしれません。大変失礼いたしました。
今回の先生からの記事。大変参考になりました。
うちの地域(田舎)でさえ、今は自宅や寺の葬儀を勧めると、いい顔をされない現実があります。その理由はご近所さんに迷惑をかけたくない、また自宅を片付ける手間がはぶける、また寺側も斎場を使えば業者も潤う部分があるといった、良いのか悪いのか持ちつ持たれつの関係があります。
しかし、最近は無縁ならず少縁社会なのか、ご近所にも迷惑をかけずに自宅葬を執り行うという形があるのですね。
しかし、今回の先生の通夜から告別式に至るまでの意味づけを改めて拝見し、新たな視点を提供いただけたような気がしました。
正直、情報や知識を深めれば深めるほど、大切な原点が薄れていく感覚を自覚した次第です。ありがとうございました。
TSさま
明日アップする予定の記事をアップしました。
こういうのが慣例としてあるならば、即刻止めるべき慣例です。
出棺前初七日にしても変な慣例を作らないでほしい。葬祭業者も宗教者も見識をもってほしい。
時には痩せ我慢も必要だ。
本音の世界では、「寺も生活を維持していかなければいけないので、そうした事情も承知してほしい」、零細詳細業者も「斡旋料的なものがないと正直厳しい」と言われる。
わかるけど、寺院も事業者も何とか説明できるようにしておかないと難しい。
>痩せ我慢も必要だ。
痩せ我慢はある意味美学ですね。
でも、その美学があるから拝まれる世界なのかもしれません。裏方に徹することができる世界なのかもしれません。
我々若手僧侶も時に心が折れそうになります。また、痩せ我慢に耐えられなくなる感覚に襲われる時があります。
そんな時、業界を超えての同志がいると頑張れるのです。先生を同志と称するのは大変失礼とは思いつつ、いつも心励まされております。
痩せ我慢して良かったと心底思えるように日々精進いたします。本当にいつも元気が出るお言葉、ありがとうございます。
つらいけど、苦しいけど・・・頑張ります!