「グリーフケア」について書かれた本がおくられてきた。
この本について文句をつけた話。
サブタイトル等で用いておられる、悲しみを「癒す」という表現は、これまで私は「使用したくない」とかねがね言明しておる言葉で、これが使用され たことははなはだ残念です。
どんな専門家でも「近親者のグリーフワークを妨げない配慮、妨げるものから防御し、個々にあった支援を行う」ことで、重要なのは死別を体験した近 親者のグリーフワークであり、グリーフケア、グリーフサポートはそれを高々支援するだけのものであり、これについての認識は必要ですが、過大に自 己評価すべきではない事柄です。
米国でも近年特に過大に取り上げる傾向にあり、私はもっと謙虚なものであるべきである、とその大切さ故に思っております。
「癒す」という言葉を使う人が全てよくないのではありません。しかし、これは「不遜」になる危険を抱えているがゆえに、使用にあたっては慎重であ るべきと考えています。
これに対して
「グリーフワーク」は、すでに古典的概念となっているとのことで使用は取りやめました。
という回答があった。それに対する私の反論
グリーフワークが古典的概念だとする考えがわかりませんね。
遺族自体の心的プロセスこそ中心なのですから。
もし古典的と言う方がいたら教えてください。
フロイドが言い出したから、ですか?
ターミナルケアが大切なのは患者のクオリティ・オブ・ライフを犠牲にする医療行為が横行したからです。
主体をどこに置くのか、問われるところです。
もし「グリーフワークは古い」という学者がいたら、その人間は何のためにグリーフケアをやろうとしているのか、とんでもないことになります。
流行を追うのは適切ではありません。
と書いた。
それに対して
「グリーフワーク」という用語の件ですが、専門家でないのでよく分かりませんが、カールベッカー氏によると、「フロイトは喪の中心課題を、情緒的なエネルギーを放出し故人を忘れることにある、と規定したが、長きにわたってそれが喪のプロセスに関する考え方に影響を与えた。喪の中心課題は感情的に身を引き離すことだ、とするフロイトの考え方は、近年批判を受けるようになった。健全なしかたで、遺族と故人とのつながりは保ってゆける、ということを肯定する研究が出てきたのである。」(愛する者の死とどう向き合うか)
そこで、「グリーフワーク」というフロイトの概念の代わりに「悲嘆のプロセス」というような用語が使われるようになったのではないかと思っています。
それに対して、私は次のように書いた、
今では、フロイドの概念をそのまま用いているわけではないのです。それが第1点です。
フロイドが言い出しただけのことです。
今では「故人を忘れる」とすることは逆行為であるという認識がおそらく大半で同意されるのではないでしょうか。
でも悲しみの感情の表出、怒りでも、解放感でもいいのですが、その表出が抑制されることでさまざまな障害が出ます。
例えば記憶する、故人との生前のことを記述してみる、ワークというほど自覚的でなくとも、なんらかの形で向き合うという状態になれるといいのだと 思います。グリーフプロセスということはキューブラー・ロスさん自身が言うように必ずしもパターン化されるものではなく、さまざまな状況により、さまざまな 局面がある、ということも理解を共有していることです。
ベッカーさんを私は信用していません。彼は怪しげな臨死体験にのめりこむはいのちの大切さみたいな空 論、当事者的視点の欠如したことを、さまざまな人がもちあげることをいいことに、危険なデマゴーグとして今は理解しています。
グリーフワークとグリーフプロセスは対立する概念ではないのです。
グリーフプロセス的意見に現象をパターン化できず局面(ディメンジョン)としてプロセスをパターン化しない、個別の対処が求められているのです。 それは見るほうの問題です。
グリーフワークは遺族自身の視点で見ることです。
それをフロイドが言い出した、というだけで、当時のフロイドの考えの問題点をあげつらって、その固有のグリーフワークを捨象するならば、とんでも ない話なのです。
それはグリーフケアという言葉を言い出した人間の当時の思想の不充分さでもってグリーフケアという言葉を葬る愚かさと同じことなのです。
フロイドが憎けりゃ、その言い出した言葉も葬る、という愚かさです。
グリーフは病気ではないのです。人間の自然なものであり、風邪もこじらせれば肺炎になり、死の危機に晒されるように、出口を塞げば心身症にもなる のです。ただ、一般にはそれぞれがそれぞれの形で自然治癒し、死別した死者を忘れるのではなく、自分の心の内に同化させるのです。それがメモリー と言われるものです。時間しかない、というのは時間が解決するのではなく、それに至るには時間を必要とするのです。それぞれのグリーフワークを邪 魔しないこと、それがグリーフケアの本質です。だから非常に配慮し行なわれることですが、自己主張する行為ではないのです。
今まで日本人の美徳として悲しまないことを共同規範として強制する部分がありますが、その考えの誤りを説き、そういう共同規範から自由にさせるこ とで、今グリーフについての主張が意味をもつのです。一般に外からのケアは最終的なものであり、でも環境が許さない人には窓口を開けておくことが 重要です。多くの人は家族や友人がその気持ちを共有し、聴いてくれる、当事者の気持ちが理解されやすいのです。しかし、個人化され、孤立化され、 あるいは共同規範の強い共同体ではその場がつくれないので、外に開かれた分かち合いとかが必要とされるのです。
実はデススタディ(東大の島薗という宗教学者は医療系の寄付が得られるようにデス・アンド・ライフ・スタディなんていい加減なことを言い出してい ますが)は、そんなに進んでいません。
私から言わせれば人間に対する洞察力の欠いたアホな研究者が多いのです。
グリーフワークを否定するのは人間自身の当事者性を否定することです。そんな馬鹿なことはありますまい。
グリーフの研究の端緒を開いたのは間違えもなくフロイドです。しかし、彼は彼の心理学研究が辿った運命と同様、その後、彼の後を辿って研究したも のが、彼自身の出した結論を否定するようになったからといって、それは研究進歩であり、フロイド自身の開いたことの功績を無にすることではない のです。
フルトンさんが10年以上前に言い出した悲嘆の先取り、あるいは予期悲嘆がずいぶんと語られるようになりましたが、今は予期悲嘆を死別の事実の受 容に効果的とおっしゃる方が多くなったようですが、私はそうは思いません。諦めを促すことはあっても、当座は楽に迎えられても、事実となると また別という事例もありますし、生前に死んだと想定した過去物語することは必ずしも正常とは言えません。言えることは告知を受けた家族がしばしば 陥ることがある、だけのことです。否定することも肯定することも必ずしも適当ではないのです。
古典的概念とする、グリーフワークに対する考え方は疑問というのが私の考えです。カール・ベッカーさんはその発言の流す害毒のほうが大きい、特に自死についてはあきれるばかりの認識です。
グリーフケア(サポート)やエンバーミングは大切である、と私は思っている。但し、葬祭業者がそれを「差別化の道具」と認識するのであれば「違う」と言わざるを得ない。
近親者の体験するグリーフについての認識は共有されるべきであるし、エンバーミングに対する賛否はあるだろうが、自由意思に基づきエンバーミングしたい人ができる環境は整えられるべきである。
私は「差別根絶」を願うものだから「差別化」という言葉自体に拒否反応してしまう。
>但し、葬祭業者がそれを「差別化の道具」と認識するのであれば「違う」と言わざるを得ない。
全く同意です。
他社との差別化の道具としてグリーフワークの研修云々との営業がありますが、グリーフワークそのものは必要なものですが、葬儀屋が片手間で出来る性質の事ではないと思っています。
商売抜きにして遺族のグリーフプロセスに数年スパンで寄り添う覚悟が必要だと思っています。
碑文谷さんが昔から訴えていたグリーフケアの必要性が、今や商売のツールとして歪曲され始めた事が残念でたまりません。
遺族の一人一人が自分で取り組まなければいけないグリーフワーク。
そのプロセスの中で疲弊していく遺族に対して適度な距離と謙遜を持って接していく葬儀社の一スタッフとなりたいと思っています。
葬儀は要るとか要らないとかは葬儀会社にとっては死活問題の昨今である。葬儀会社はあの手この手を考えて、葬儀を必然的な物であり、お金をかけて故人をおくり、その後の悲嘆から脱け出す方法も唯物化し、ご遺族、特に高齢者の伴侶を亡くした顧客も囲い込もうとしている。これはグリーフケアではなくてマーケティングである。葬儀会社も過去にはそこまでは手を出さなかった。碑文谷さんに届けられた本は、誰に読んでもらって、どの様な批評が欲しいのでしょうか。葬儀屋が医療の範疇までも進出するならば、それなりの研究をして正攻法で論じるべきである。葬儀屋の浅はかな戦略にしか見えない本をどこの誰に、どんな時に読ませたいのか不埒としか思えない。言論の自由を封じるつもりはないが、葬儀屋の奢りなのか、無知なのか。一刀両断にしたいものだ。