クールな夏

きょうの東京は小雨降る涼しい夏。
ベランダから外を走る車を何気なくタバコを吸いながら見ていた。

19日の夜、やはりベランダでタバコを燻らせながら、感じた
俺は時を消耗している
という思いが、それ以来、頭に住み着いていて離れない。もっと別な表現があるのかもしれないが、妙にこの言葉が残る。

消耗しない生き方を希求しているわけではなく、消耗している現在を否定しているわけではないのだ。

若い時の気分、自分に耐えられなくなった時、歌舞伎町をあてどもなく彷徨していた時に感じていた気分も同じだったように思う。

おそらく若い時の書いたものをこの半年、読み直していることが影響していることなのだろう。
あの時の自分はどうだったのだろうか?
そして今の自分とは…

最近、よく足元で新聞紙に足を取られて滑ったり、カバンを越そうとして踏みつけたり、その他もろもろ、いわゆる足元が危なくなってきている。
また、そうした自分に慣れていないものだから、いつも落ち込む。

このところ思いついたらメモを取るようにしている。すぐ忘れるからだ。でもこれがよくない時もある。
書いていて、何とかこのメモしたことを使いたい、とこだわり、そのため思考がにちもさっちもいかないことがあるからだ。

計算間違えは昔からよくするのだが、致命的なことをやらかすことが増えた。
ある数字を追っていて「おー!」と思う。そこで冷静にもう一度計算し直せばいいのだが、その驚きで文章を書いてしまう。後からその間違えを指摘されて萎れる。

生産的でない時間を今はできるだけ大切にしようとしている。
私のような病気もちは、「どうしてもできない時間」がある。そこにある5時間を使えないことがある。その時は何もしない。本を読んだりして、その時間が過ぎるのをひたすら待つ。
だが、その間にふとアイディアが浮かぶことがある。後から考えればたいしたことではないことが多いのだが。

雨音、というのは昔は憂鬱なものだった。今もそうだが、時々雨音が聞きたくなる時もある。

「時を消耗している」気分、このなかにいると結構きついのだが、それを否定されると「生きていけねーな」とまた思う。

以上、きょうの独り言である。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/