かつては新幹線の中、飛行機の中、どこでも原稿書いたり本を読んだりしていて、どこでも寝られる人を羨ましく思っていました。
それが今ではどこでも寝る人間にすっかり変わりました。
8月27日(土)新潟の妙光寺の「フェスティバル安穏、万灯のあかり」に行ったのですが、夜の懇親会の後、庭、通路に置かれた優しい灯のなかで行われた法要がとてもよかった、と評判でした。
でも、私はその時、客殿でぐっすり寝ていました。
若い人がみなやってくれて、私のような長老には出番はなかったのですが、あっちの人、こっちの人、と言葉を交わし、おしゃべりし、人の中ですっかり人酔い状態でした。
無事往復635キロを一人で運転してきました。
というか快調で、運転が楽しかったです。
枯葉マークまで生きられるかどうかわかりませんが、もう少し車と付き合おうかな、と思っています。
きょうもテレビ局の人が来て、お墓の歴史についてしゃべっていたのですが、妙光寺の永代供養墓「安穏廟」ができたのが1989年、1991年には葬送の自由をすすめる会が「自然葬」と称して散骨を始めました。岩手県一関市にある知勝院(祥雲寺)が樹木葬を始めたのが1999年のこと。この10年を私たちは「お墓の革命」と言っています。
明治民法で家制度が生まれ、ちょうど感染症の大流行があって伝染病予防法ができ、火葬が推進されて生まれたのが「家墓(イエハカ)」。
戦後は民法が変わり、家は世帯単位になり、高度経済成長に伴う都市化現象で都市近辺に生まれた核家族墓。明治民法下の家墓と名前は同じでも戦後民法下ではその実態が合わなくなり、90年を境に一挙に多様化が進みました。
一方で身元不明遺体、引き取り手のいない遺体が増えています。
葬送の変化の歴史は社会、特に家族の変容に随伴しています。
東北を中心に襲った震災以降、死に対する感覚の変化が見られます。
死は突然侵入してくることがあること。老いの先にあるとは限らないこと。死がもたらす家族や知人へもたらす圧倒的な悲嘆。
3・11から5カ月経過しても行方不明が約4500人いること。
遺体のない葬式をこれだけたくさんあげるのは戦時中以降なかったことです。葬式を挙げるのを拒んでいる家族もいます。
死というのは同じではなく、人によって大きく変わることもこの間認識されたのではないでしょうか。。
キーワード的に言えば、
永六輔の『大往生』(岩波新書)以降「自分の死を考える時代」がきて、グリーフケアが話題となり「家族の死」が問題とされる時代がきて、孤独死・自死・震災死の中で「死者」が問われる時代がきた、と言えないでしょうか。
今夜はこれから小学以来の同級生のK君が上京してきて呑む予定。同級生の死が続く話が話題の中心となるでしょう。