また冬が巡り来る。
陸前高田の「奇跡の一本松」と言われ、大津波に耐え、ただ1本残った松も、塩害で根が腐り回復不能とのこと。
子どもの時にあの海岸線にずらっと並んだ松林の光景が目に浮かぶ。そうした思いを抱く人は多いようだ。
「震災失業」の事態は危機的とのこと。
各紙が報じているが、被災地で倒壊し、流失した工場が閉鎖され、残った従業員が解雇される。
陸前高田に足を運ぶ友人の声が暗い。
自営の店舗、商店を喪った人たち。
高齢者は途方にくれる。
若い人は町を去らざるを得ない。
フクシマだけではない。人が町を去るのは。
「残るのは年寄りだけか…」
多くの人が嘆息する。
仙台だけが「復興需要」に沸き立つようだが、それも非正規雇用が多い。
国分町は賑わうが、何か虚ろである。
宮城の多賀城でも
「この河が氾濫して…」
海からの水が河を逆流し、一帯が浸水したと説明を受ける。
だが表を見る限りはその跡を示すものはもう少い。
原発で内部被爆が恐れられるように、大津波の痕跡も内部化し、生活を脅かし続ける。
「復興」という言葉が踊るが、陸前高田では高台移転が計画されているのだが、その高台に不動産業者が群がり土地は高騰。
普通の人たちの手が届かないところにまでなっている。
しかも津浪に遭った平地をいくらで買い上げるか、まだそれすら道筋はたっていない。
例えそこに家を建てても、暮らしが成り立つのか不明。
漁業も崩壊している。
知人の地元宮古に戻った青年からは連絡が途絶えたまま。生死不明。
我々の脳内に潜むケガレへの差別意識がいったんは戦後デモクラシーで表面上は払拭されたかに見えた。
だが「放射能に汚染されたらしい」ということだけでフクシマの人も車も農産物、水産物のみならず多くの地で差別されている。
しかも声高に。
「安全」という誰もが反駁できない言葉によって。
戦後の猥雑さは、一部の例外を除いて、ほとんどが貧しさと数百万人の死という喪失のなかにあったから、特別なものではなかった。
だが、今は、特に被災地とそれ以外では安全とそうでないものの差が際立つようになっている。
貧困も新たな境涯にある。
最近、葬儀の変化について私が語るのは、現在が変わってきた、というよりも、
「戦後の高度経済成長からバブルに至る60年代、70年代、80年代という30年間が異常だった」
ということではないか、ということである。
でもその前と決定的に違うのは、市部人口と郡部人口の比率がかつての2対8から真逆の8対2になっていることである。
家族も地域共同体も今は弱くなり、個(弧)の時代になったということである。
今の40代未満の人たちはバブルを体験していない。
それだけではなく、格差をいやがおうでも知っている世代である。
能天気な富裕階級と下に渦巻く階級とに二分されている。
原発も含め、我々は最後の身の処し方を知らずして流れてきたのではないか。
流れ、流れててきた地点が今だというのは哀しい。
大震災は、いやがおうでも、われわれが抱えた現実の虚ろなことを、多くのいのちの喪失とともに曝けだしたように思う。
碑文谷先生 ご無沙汰しております。
時々拝見させていただいております。ブログを拝見して、正にその通りだと思いました。これからどのように作り上げるのか、難しい課題ですが、目を逸らさずに行きたいと思いました。寒い日々が続いておりますので、どうぞご自愛ください。