大失敗で年を閉じる

昨日長い記事を書いた。自分ではアップしたつもりであったが、そうではなかった。
帰るときに慌ててネットやらメールやら閉じる、そこで一緒に消してしまったらしい。

「師走で考える」ということで、震災のことやら、自分のもつ東北人であることの屈折が吃りに影響していることら、被災地を訪問した「傾聴ボランティア」が地域の人に役立った一方で二次被害を招いたケースもあること、「臨床心理士」が国家資格化する動きがあるが、専門職のできることは極めて限定的だという自覚が必要と思うということ、行政が「尊厳ある死」を言い出したことの危なさやらを長々と書いた。自分はてっきりアップしたと思い込んでいた。

今朝、少し言いすぎたかな、と思って開いてみたら、昨日の記事はどこにもない、ではないか!

こんなものかもしれない。
ちょっと気を入れすぎ状態で書いたのだが、これは掲載するな、というサインだったのかもしれない。実は単純なおっちょこちょいのミスでしかないのだが。

自慢することではないが、こうした経験だけは豊富である。
ワープロはワープロ専用機の時代8インチのペラペラのフロッピー時代からかれこれ35年以上使っているが、保存や置き換えをしなかったために、ほとんど完成寸前までいっていた原稿や書類を消してしまい、最初から作り直すはめになったことは、10回やそこいらのレベルではない。

要するに、不注意、おっちょこちょい、という傾向は今老いてからのことではない。
100枚書いた原稿を消してしまったときはショックだった。青ざめるなどという中途半端な状態ではない。途方にくれた。
その時どうしたかは記憶にないが、おそらくやり直したのだろう。

若い時はやり直しが容易である。でも老いると面倒である。
したがって今回の記事は書き直すことなく、消してしまったミスを公表して2011年の締めとしたい。

忘れられない1年であったし、年が変わろうと事態は継続している。
政府が早々にフクシマの収束宣言をやらかしたときにはあっけにとられたが、もちろん終わってはいない。
がんを患った桑田佳祐が、プレー再開直後に仙台でライブをし、年の最後を95年の震災の地、神戸でライブをする、というのはつくづく感心した。桑田は記憶すべきことをきちんとやっている。

今朝のニュースでは大津波の瓦礫がミッドウェーにまで到達し、西海岸に行き着くのもそう遠くない、という。
太平洋はつながっているのだ、とつくづく思った。

そして先の大戦で、後の処理を考えずに無謀な戦争を仕掛けた軍隊が、ミッドウエー海戦での大敗で止めるのではなく、多くのいのち1千万人以上を犠牲にして、負け戰(いくさ)を重ねて、消費していった、という暴挙を行ったことを想起する。

後の処理を考えずに始めたのは大戦も原発も同じである。危険を承知して多くの人が「沈黙」したのも同じである。
「大東亜共栄圏の建設」「安心のクリーンエネルギー」とマスコミがさんざんもてはやしたのも一緒である。

昨夜ホームページに今年2011年5月に書いた3.11の記事をアップした。
http://www.sogi.co.jp/sub/shinsai/eqindex.htm

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/