「自由意思」の難しさ―尊厳死法案

自分が今何をしているのかわからない混乱した状況はほんの少し峠を越えたものの、まだまだ遅れていることで謝らなければいけない人が多い。
体力、集中力の衰えが進んでいることもある。
ときどきはまったく仕事が手につかない日もあるから、先の予定を示すことが難しい。
少しずつ、着実に、ではなく、わーっと進めて、急停止してしばらく起き上がれない状態、が繰り返し起こっている。
一方で、書くテーマは自分では大事にしていることなので、はまった時には時間がすっ飛んでいる状態。
「今、何時?」「今、何日?}ということが、ときどきではなく、しょっちゅうある。

さて、予告したテーマであるが、書こうとしているのは「尊厳死法案」についてである。
これは議員立法という形で超党派の議員が考えているものであるが、そもそもは尊厳死協会が唱えている「リビング・ウイル」の合法化から来ている。
尊厳死協会の唱える「尊厳死」とは
傷病により「不治かつ末期」になったときに、自分の意思で、死にゆく過程を引き延ばすだけに過ぎない延命措置をやめてもらい、人間としての尊厳を保ちながら死を迎えることです。」
と規定されている。

問題は「不治かつ末期」という状態がどうであり、誰がそれを判定するのか、ということと、「自分の意思」についてである。
戦後医療技術のすさまじいまでの進歩で、生と死の境界が合意を得られない状況になっていることからくる混乱の一つである。そのくせ法律的な死は点で判定されるようになった。

近代以降、死の判定は基本的に医師が下すようになった。但し、医師が診療していない場合には警察に届け検視が行われ、警察医が「死体検案書」を出すことによって決定される。
出生届で戸籍に登録され、死亡届により戸籍から取り除かれるのだが、この死亡届には死亡診断書か死体検案書(またはそれと同等のもの)が付される必要がある。
医師の死の判定は心臓死(これは脳死という概念が出て生まれたものだが)によって判定される。
だが人工呼吸器ができて以来、これが複雑になった。自発呼吸はできず脳は死んでいるのに心臓は動くという状態が一時的に可能になったため、心臓死=死とは必ずしも言えない状況が発生し、また従来の心臓死認定の一つの要素であった脳の機能停止が起こっても心臓自体は動いて、身体に血流を流し続ける状態が発生したことである。
「脳死判定」の医学的な難しさもあるが、これが臓器移植のための死の判定という動機の問題もある。脳死について規定しているのは「臓器移植法」によることが、その事情を示している。

人工呼吸器は悪玉だけではない。治療の一助にもなっている。またALS(筋萎縮性側索硬化症)のような場合には、呼吸麻痺を起した患者でも人工呼吸器を装着することで本人が意思をもった形で根治は困難だが延命を可能にする。
ALSの場合は脳死状態にあるわけではない。だから人工呼吸器が意味のない延命を来す場合とは明らかに異なる。尊厳死の対象ではない。
しかし意思表示力が外見からは注意しないとわかりにくいということもあり、ALS関係者からは尊厳死法案への反発が強い。
また3分の1の人の死因となるがん(年間約30万人ががんで死亡している)とは異なり、ALS患者は極めて少ない(現在全国に8500人程度いると推定されている)ので、社会的に注目されることが少ない。
尊厳死は何もがん患者に対してだけのものではないが、歴史的にがん患者に対して行われる延命措置がしばしば当人のクオリティ・オブ・ライフ(生または生活の質)を犠牲にして優先されがちであったことへの反発から出た運動であり、同じく「延命」をキーワードとしている。だから尊厳死を認める立法化はALSの患者や家族にとっては多数の力で少数のいのちを圧するようにどうしても映るのだ。

尊厳死法案に反対する動きには以下のようなものがある。

日本自立生活センターが出した反対声明には次のようにある。
学習会には、日本自立生活センターの障害当事者メンバー、そして、人工呼吸器や胃ろうをつけた高齢者や難病患者、またその家族や支援者など、関西各地より多数のメンバーが集まりました。
 さまざまな社会的偏見や制度不足の中で生きてきた私たちには、これまで尊厳ある生が政府や社会によって約束された経験はほとんどありません。
 尊厳ある生の保障を放棄して、尊厳ある死というまやかしを推奨することは、政治にとって敗北を意味すると私たちは考えます。

あるいは安楽死・尊厳死法案を阻止する会は、
リビング・ウィルに署名し入会する者を募り、その数が10万人を超えたと宣伝している。しかし、同協会のリビング・ウィルは、将来おこるかもしれない状態を想定して前もって行う意思表示であり、実際に延命措置に直面しての意思表示ではない。
 リビング・ウィルの署名者を広く募り、尊厳死の法制化をめざすとき、個人の「死ぬ権利」は、「死ぬ義務」となり、弱い立場の者に「死の選択を迫る権利」に置きかわっていかないか。
 「あのようになってまで生きていたくない」と、生きている人の状態を「あのように」と見る、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要がある。
 尊厳死法制化の動きは、人工呼吸器を使って呼吸し、栄養・水分補給をうけて生活している人々をはじめ、障害者や高齢者に目に見えない恐怖をいだかせるものとなる。
 現在では癌への対処法も進歩し、抗癌剤の副作用を減らし激痛を緩和することも可能になってきている。激痛のため生命を絶つなどということは、もはや過去のこととなった。
 生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制が不備のまま、「尊厳死」を法制化することは、病に苦しむ人や高齢者に「死の選択を迫る」圧力になりかねない。

と反対声明を出している。

尊厳死法案はまだ骨子の要旨の段階らしく、まだその内容はこと細かく決まってはいないようである。
だが反対者が言うように「死ぬ権利」を主張しているわけではないのだが、尊厳死協会の出自が、かつて「葬式無用論」を唱えたこともある太田典礼(産婦人科医師)らが起こした「日本安楽死協会」にあることを引きずっている問題がある。
そこには「無用な生」を拒否する自由とでも言うべきものである。

今回立法化に反対する人には、「生」の価値観が強制されてはならない、というものがある。
なぜ法律を作るのか?
という疑問である。
生きられる人の生を無用のものと否定したり、その人の「自由意思」なるものの表明を妨げ、「尊厳死希望}と言わしめる力が働かないか?
という疑問である。

だが尊厳死を主張する人には、人工呼吸器のみならず、点滴の医学的進歩があり、これにより強制的に生物的にのみ「生かされる」あるいは生の質までを犠牲にして、それによって少しでも症状が改善される、症状がなんらか緩和されるのでも、生物的延命にすらほとんど効果のない、場合により治療で死期を早めたりすることさえある治療を受けざるを得ないのか、という疑問がある。

近年の緩和ケアの発達で、激痛緩和もできるようになってきているが、医師のなかには関心が低い、患者の生全体を見るのではなく、治療のみを優先する者はまだいる。
その結果、最後の近親者の間の大切な別れの時間を奪ってしまう医療状況がまだある。
そこで確率は低いが治療を優先させないと自殺ほう助、殺人等の罪で訴えられることを危惧する医師、病院がある。
尊厳死についてはその意思表示をした場合、現在では8割近い医師が尊重してくれるようになってはいるようであるが、尊厳死の意思表示を尊重した結果、医師が訴追されないよう、本人の自由意思表明により医者が安心して緩和医療へ転換できるよう促すことに立法化の意図はある模様である。

だが、ものごとは単純ではない。
高齢化が進み、高齢者医療費の高騰を受け、今では政府機関までもが「尊厳ある死」を言い出している。
これは、動機は不純であるが、口には出さないがかなり多くの人が思っていることである,点が怖い。
それぞれの生や死を尊重して言っているのではなく、このままでは健康保険が破たんすることを心配しているのである。
だから難病患者やその家族が、その世間の裏側にある「医療費を難病患者や高齢者がつかいすぎるのが迷惑だ」という視線を心配して、必要な医療すら費用が高いことを理由に「自由意思で辞退」させられるのではないか、と危惧しているのである。危惧を超えて恐怖感ですらあるだろう。

がん患者にしろ難病患者にしろ(その他の病者も同じなのだが)生の質が問われるべきは同じである。しかし、同じ言葉が逆な働きをすることがあるから問題は厄介である。
例えばがん患者の場合、とかく過度な延命治療が本人および近親者の生の質を害することがあり、難病患者の場合には肉体的な病気が進むことで延命治療が本人や近親者の生の質の維持に必要になることがある、ということである。

問題は一般化できない、ということである。
人間の生と死は(あえて「生」だけを私は言わない)、固有のもので、それぞれに即して語られなければいけない、ということである。

個人的なことを言おう。
父は一切の延命治療の拒否を公言していた。医師も家族も同意していた。
もとより医師には患者が大学病院にでも行かなければ、あるいは行ったとしても、これ以上父を生かす方途はなかったのかもしれない。
父は自宅で家族と医師、保健師が見守る中、医師の予告どおりに死亡した。
医師の予告を高齢の母には言わないおいでいたが、その晩母は寝間着に着替えずに父を見守った。

母は、自由意思を表明する状況にすでにない。
数回危篤になって医師は「不明」と言うだけで特別な治療措置を取らなかったが、奇跡的に回復して、今98歳で認知症で特養のお世話になっている。
母の生と死については私たち家族はとにかく自然であってほしい、と思っている。

「自由意思」が問題になるが、元気な時に本人が表明しておいてくれないと家族はなんとも困惑するものである。
治療を延長すれば本人のためにいいことなのか、と悩み、延命治療をしないことにすれば殺害に加担することになるのでは、とまで思ってしまう。
迷うどころの話ではない。家族はどっちの判断をするにせよ苦しむのだ。そして、その罪悪感は葬式が終わってもなかなかやまないのだ。
そういう人が現に少なくない。

また、反対派の人が言うように「自由意思」はほんとうに自由意思か怪しいのだ。周囲の状況と無関係に自由意思を表明できるほど、人間の多くは強く、わがままにはなれない。周囲を忖度するのだ。環境が恵まれないほどそうだ。

また自由意思だって変わる。
だから法的遺言は、いつでも後から無効にしたり、直したりできるようになっている。
但し、自由意思が発揮できるかぎりではあるが。
変わるのは何もほんとうに本人や周囲にとっていい場合とはかぎらない。

ずいぶんと長くなったが、最後に現在の死者の一般的(全部とは言わないし、言えない)な状況のほんの一端を語ろう。

1960年代頃(地方によっても違うが)までの遺体と現在の遺体とでは一般的に現在のほうが腐りやすい。
以前は8割が自宅で死亡したが、今は自宅で死亡するのは12~13%である。
かつては口から食物を摂することができなくなったら本人も近親者も死期がきたことを感ずいて見守った。
今では高齢者の単独世帯も珍しいものではなくなった。見守る家族も少数化している。
病院では最後が点滴で本人にとっては過度な栄養補給されたあげくに死亡するケースが少なくない。そのため腐敗の進行が速い。

それだけが理由ではないだろうが、死者のそばにつきっきりの家族もいるが、そのまま遺体用の冷蔵庫に送り、自分たちの都合のいい日に冷蔵庫から出して対面もせず、葬式をしたりしなかったりして火葬にするケースが多いようだ。
葬式をするかしないかはここであまり問題ではない。そんなことで差を設けることはできない。
3・11のような大災害では、数か月経て見つかった、損傷激しい遺体もあり、見せられないと思った葬祭業者もいた。しかし、あえてわが子を確認しようとした親もいた。
多くの被災者が「せめて病院で死なせたかった」と悔いたと言う。

その病院での死が懇切丁寧な治療の結果死亡し、それゆえ腐敗が促進され膨れたりした場合、それは一種の遺体損傷と言えるかもしれない。
生きている者の尊厳も死者の尊厳も守られるべきである。
その後の家族の心情を考慮するならば、この問題はけっして小さな問題ではない。

近代医療の結果、かつては助からなかった病気もたくさん助かっている。明白なのは乳幼児の死亡率の劇的低減である(まだアフリカ等では乳幼児の死亡率が高い国が多い)。
だから単純に近代医療に文句をつけているわけではない。
どんな局面でも医師だけの問題ではなく、総体的な人間として相対する必要があるだろう。

尊厳死法案は一方で過剰な医療による犠牲者を少なくしようとし、一方でもっと必要な治療を受けられていない人の心理を圧迫する両面があることは認識しておいていいだろう。
だから私は立法化を急ぐことには反対である。
もっと多様な価値観や多様な存在を許容する文化の育成がなければ実を結ばないと思うからだ。

法案反対者も怒りや恐れもあってのことだろうが、立法化を主張する人に対して「死ぬ権利の主張」などと批判するものではない。
自死というのは究極的な自由意思による判断と言われるが、現実はかなり多くの人が自由意思で選択しているわけではない。
また、少数でも自由意思によって選択した人があったとしても当人と同じ状況を知るのでなければ外からとやかく言う権利は誰にもない。

生の尊厳と死の尊厳は比較して比べられるものではないのだ。

こうしたでかい問題はブログで言うには大き過ぎて、中途半端なものになった。
一つの私の現在の思いの一端と受け止めていただければ幸いである。

 

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「「自由意思」の難しさ―尊厳死法案」への1件のフィードバック

  1. はじめまして。牛山馬男と申します。茨城に住んでおられるある葬儀関係の女性のブログを見て、このブログを見つけました。
    あまりに大きな問題なので、どこからコメントしていいか、わからないのですが、印象に残った部分は、現在では「死は点」で捉えるしかないということです。少なくとも法的に考えると「点」ではないと、処理のしようがないでしょう。
    ただ実際は、この点以前が「生」で、その後が「死」であるとは言えないのが実相なのかもしれません。「生」も「死」を含みながら、取りあえず、生物としてはいのちを終えるというのが、私が感じる死へのプロセスです。
    死が「自由意志」の「選択」で選べるものなのかという問題もあまりに大きな問題で、一般化できない、個別の問題だというのはわかります。
    極端な話で言うと、「自由意志」で選択された尊厳ある死とは、武士の切腹とか、許されない恋の果ての心中だと思います。これは間違いなく、選択する主体が自分の遺志で、死を選択してる状況です。
    それに対し、終末期医療で自分で死を選択する状態にない人間の「尊厳死」とは何かというと、医療技術や生命観などをはじめとして色々な問題が絡んできて、確かに一概に答えは出せそうにありません。
    実は自由意志で選択しているのではなく、選択が許されない状況で、表向き「選択させられれている」という状況が多いのではないでしょうか?
    死を選択する決定権が本人にない時、それを決定するのは、医師なのか、肉親なのか、あるいは赤の他人でもいいのか?考え出すとわからなくなりますね。
    その時、「死」というものをその個人に還元して考えるのか、あるいは個人を超えた「類」的なものとして捉えるかでも、その死についての見方は変わってくると思います。
    長いコメント、失礼いたしました。

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