今、たばこをくゆらせながら思ったのだが、「懐かしさ」というのは現にいきているかどうかに関係ない想いだということだ。
この歳になると年々友人が死んでいく。
そして「懐かしさ」の感情はその人間が現に生きているかどうかにまったく左右されない。
人間関係を考えると、「死」は障壁ではないのだ。
「人間関係」というのは感情で、その人間が好きということで、ことわるまでもなく性的な関係をまったく意識しないで言っているのだが、これは相手の死によってまったく変化していない。
ぼくが大好きだったのはRという奴で、10代の最後に2年くらいの付き合いしかなかったのだが、彼は中退したため会うことがなくなってしまったのだが、彼の繊細な感性にとても気持ちのよさを感じていた存在なのだが、彼が死んだと聞いたとき、とても納得した思いがしたことを記憶している。
もちろん聞いたときはびっくりもしたのだが、そうならざるを得なかったのだろう、ということを妙に納得していた。
ぼくにとって、今老境に入っても、彼はもっともなつかしい存在であり続けている。
この感情は40年以上経過した今でも変わらない。少しも古ぼけないのだ。
歳を重ねるとは、いろんな汚れをみにつけていくことでもあるのだが、老いていく人を見ると、もっていたものを脱ぎ去っていくようなところもある。もうもっていても仕方がないとおのずとわかるのだろう。また、執着する力もなくなるのだろう。執着するというのは力技だから、エネルギーが衰えれば、維持することすら難しい。
老後も死も選択するなんてことはできないのだ、とつくずく思う。なんとかなる、のか、どうにもならないのか、言いようはあるだろうが、自分の手の範囲にはない。
そんなこと誰にもわかっているはずなのだが。
「懐かしさ」の話に戻ると、私は自慢ではないが、記憶力は並外れて悪い。このことでよく叱られもするのだが、記憶していないのだからどうしようもない。そこで記憶で争うことはやめている。「こう言ったじゃないですか」と詰問されると、言ったかどうかは争わず、ひたすら謝る。言わなかったという記憶もさだかではないから、そんなはずはないのだけれど、と思いながら、立証がまったく無理なので謝る。だから心がこもっていない、とまた叱られるのだが。
私が「懐かしい」たとえばRのことにしても、叔母や叔父のことにしても、細かい記憶はすっとばしたところの懐かしさなのだ。事実の歴史ではなく、表情や匂いの類なのだ。だから色褪せようがないのかもしれない。
お盆の季節になると、原稿依頼等々が舞い込む。私の仕事は季節ネタみたいなところがある。話すと「へ~」とか相槌をうってくれたりするものだから、少し話が長くなる傾向がある。長くなったと思ったら「また、呼んでください」と言って切り上げる。
この度合が難しい。
相方に言わせると「早く話をやめないか、と思っているに決まっているでしょ」となる。そんなものだろう。
碑文谷先生 ご無沙汰しております。梅雨明けして、益々暑さが厳しいころとなりますね。その節はありがとうございました。時々先生のブログを拝見しております。今回の懐かしい想いが妙に心にすうっと入り、残りました。日本人の想いなのかなと思います。
今、会社で、はかどこ.comというサイトを始めました。
また、お便りします。暑いのでどうぞご自愛ください。