本日、編集者の野田映史さんが事務所に来て、本の見本を置いていった。
碑文谷創『キリスト教界と東神大闘争~碑文谷創全発言録~』
(本体3800円+税、論創社)
四六判346ページ。ちょっと高いのは少部数出版だからだ。本屋さんには盆過ぎの8月下旬から出ると思われる(出版社のホームページにもまだ記載がない)。
そのあとがきに書いた文章の先頭部分のみ出しておこう。
本書は、約40年前に私が学生時代に書いた文章を、発表順に集めたものである。「発表順」にこだわったのは、私自身がその過程で変化しているからである。その変化がいかようなものか、私は分析するつもりはない。ただ正直にその過程を示すのがこうした記録として残すことである、と開き直っている。中にはいわゆる「アジ演説」のような文章も登場してくる。これも当時世に発した文章である以上は記録の中に留めるべきであろう。中には書いたことを後悔するような明らかに不出来のものもある。私個人としては抹殺したいのであるが、それは正直ではないだろうと思って削除していない。今読み返すと、ところどころ何を言おうとしているのか、書いた当人さえ不明な点がある稚拙な文章である。
お断りしておく。断るまでもないことだが、闘争は私だけが行ったものではないし、もっとまともな論理で語る者が仲間にはいた、という事実は言っておかなければならない。本書への批評、批判は私に向けられるべきことで、一緒に戦列を組んだ一人ひとりの仲間に対する冒涜(ぼうとく)になってほしくない。
これらの文書は、1970年前後に、20代の前半に書いたものである。キリスト教プロテスタント系の、日本で最も小さい大学の一つで、キリスト教しかもプロテスタントだけを学ぶ単科大学である東京神学大学(以下、東神大)で、教授会と対立して全学共闘会議議長として闘争を率いた私が、その以前の文書から闘争に敗北後に断筆に至る過程で書いた文章である。当然にも1冊の本として纏(まと)められることを想定しないで書いた文章である。
あくまで「史料」として出したものである。編集者から3年前にお話をいただいたのだが、出す価値があるか迷いに迷った。当時の仲間には一切相談しなかった。ゲラになっても1年以上放っておいた。
編集者が「記録ですから」と言うのに反論できず、出すことになった。本書につけた「あとがき~あれから40年が過ぎた」だけが今回書いたもので、その他すべてが69年6月から72年6月にかけて書いたもの、そのままである。修正したのは明らかな誤字程度である。あとがきだけで膨大な時間を費やした。
当時仲間が約70人ほどいた。すでに死亡した者が私の知るかぎり7名(自死含む)。もし彼らがこのブログを読んでくれていたら事務所(表現文化社)にファックスしてほしい。献本する義務が私にはある。但し、根が非情なため、住所録的なものを一切もっていない。連絡を乞う。
そのあとがきの後半に次のように書いた。
40年という時間は、客観的に見るならば長い。1964年、東京オリンピックの年に私は仙台から上京したのだが、その40年前と言えば1924年である。大正末期で、関東大震災の翌年である。充分に昔の話である。満州事変の首謀者にして異才石原莞爾や北一輝の書物を読んだ時、私は歴史として読んだことを記憶している。だとするなら、私が若い時期に書いたものを提出するのは、今の若い人たちに歴史資料を公開するようなものかもしれない。
だが、自分の心境としては、ついこの間の出来事であり、この課題は何をするにもずっと引きずってきた。
ろくな解説がないから、また生硬な文章なので、関心のない人にはものすごく読みにくい本であると思う。噂で回るよりも書いておいたほうがいいだろうと思って書いた。
死や葬送とは何の関連もない本である。
311以降、朝日新聞から東京新聞に変えました。
恩師の葬儀から帰ったらかみさんが、
「あなたの環境にそっくりな人の文章があったので、切り抜いておいた」といわれ、読ませていただきました。
17年前に父を、今年の7月に母を送り、まさに境遇が一緒です。内蔵が強かった、骨を折った、脳梗塞を患った。
享年、母は95歳でした。
生きるすべてを学びました。
碑文谷様のブログを調べていたら、コメントを書こうと思い立ちました。父とはあまり話すことも無く逝ってしまいましたが、やはり空虚間は大きいものでした。
では。
私は亡き島勉の妻です。彼が生きていたら買って手元においただろうと思います。東神大紛争の記憶を再現するような昨今に、言葉を飲み込んでいます。
島さんコメントありがとうございます。
勉君亡き後、ご一家がどうされているか案じておりました。
ぜひ事務所までご連絡いただければと思っております。
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