享年では100

先週の金曜日の午前3時に母が満では98歳ですが、数えの享年では100歳で死亡し、福岡に行ました。

 

母は今年の3月から危篤状態を繰り返し、一切有意味な治療は行わなかったのですが、生命力が強く、医師もわからないとお手上げの状態で5か月生きました。

 

7月に食事に姉夫婦と私が出かけたのが外出の最後でした。
まさに生き切った、という感じです。
母は、80代から認知症になり、ここ数年は介護の方たちにも悪態つき放題でしたが、最後の半年は穏やかになってくれました。
眠っている延長上で死亡しました。 まさに老衰でした。
点滴等は一切しませんでしたから、最後は骨と皮になって小さくなって死にました。
おかげできれいな死に方となりました。
人間から理性をはぎ取ったらどうなるか、ということを母は教えてくれました。 周囲から注目されたい、甘える、そうしたほんとうに素直な感情の強さを教えてくれました。
母は8人きょうだいの3番目。
すぐ下の叔父が先年死亡しましたからきょうだいで最後の生き残りでした。
叔父も自宅で朝叔母が起きてこないのでみにいったら死んでいた、という2人そろって眠ったままの死となりました。
一人の叔父はガダルカナルで戦死。戦闘死、餓死、マラリアでの死かも一切わかっていません。
またさらにその下に3人きょうだいがいましたが幼少期に死亡しています。
8人いて80歳を越したのが2人、3人は20歳未満。1人が戦死、2人の伯母は50~60代で死んでいます。
まさに人のいのちはさまざまです。

充分納得しての死ですが、葬式は疲れます。

泥のように眠るのですが、疲労感はなかなか脱しません。

昨日遺骨抱えて帰宅。
飛行場のゲートで遺骨だと申請したら、物ではなく、私と一緒に機械の下をくぐりました。
ちょっと感激しました。
10月下旬まで我が家に安置します。
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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「享年では100」への2件のフィードバック

  1. 月が替わって・・・すこーし涼しくなってきたかな・・と思った矢先うだるような蒸し暑さの来襲・・秋はまっだ遠い・・と思っていたら・・窓の外の虫の音が・・田舎ですから・・わたしんち!
    ご無沙汰しております。お母様のこと
    このたびはご愁傷様でございました。お悔み申し上げます。
    父の死・・以来・・死後何をしても自己満足に過ぎない!生きてるうちに・・と再認識して・・できるだけ母を見舞っております。妹が看てくれてるんですが・・帰った時は私がおさんどんです。母の味が染みついていますので・・わりかし喜んでくれます。しかし・・最近味が薄いね・・。とか たまに攻撃的になったり・・。病気も少しづつ進んでいるようです。でも私が  [じゃあ、帰るよ、また来るけえ]と申しますと・・ガソリン代はあるの?と聞いてくるんです。涙が出そうで・・うんうん持っとるよ!っていってもポケットにてを入れてお金を渡そうとするんです・・。いつまでたっても母親なんだな・・いつまでたっても子供なんだな・・って思いました。

  2. ご母堂様には、お寂しいことですね、お悔やみ申し上げます。以前、松本の「神宮寺」で坊さんサミットとワークショップで、模擬葬儀を行った際、夜間にお話しさせていただいた者ですが、その時にお葬式のモデルになった神宮寺の高橋卓志住職のお母さんも、先月お亡くなり、そして、今月16日に「お別れ会」をされます。ところで、碑文谷さんのお母さんも、点滴などせずとおっしゃっておられるように、自然なご遺体を見ることがここ、多くなった気がします。死因「老衰」と死亡診断書には医師により、記載されているのですが、お身体は今にも、言葉を発しそうな膨よかなお婆ちゃんが多く、ご移送の際にとても重く大変だった。だから、お話するのではないのですが、尊厳死と大げさなことではないのですが、だんだん寿命に沿った自然な死を迎えるべき人生の旅立ちにたいする身体的にも精神的にも無理のない生き方が素直にできる時代に変わってきたと「ホット」しています。人生にも店仕舞いのタイミングが、狂っていたのが自然に戻っていくような気がしています。いつも 拝見させて頂いておりますが、酷暑が続きそうですが、お身体には十分お気をつけ頂き、いろんなお話を教えてください。

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