敬老の日

昨日は「敬老の日」であった。
私も対象者じゃないですか。
違和感がある。

といってもしょうがない。65歳以上は自動的に高齢者なのだから。
私は66歳、同級生の半分は67歳になった。
私の学年は数が当時は最も少なく、いわばウエストである。
俗に「非国民の子」と呼ばれた。

われわれの2学年下から「団塊の世代」
間に合わないのでプレハブで授業を受けた口である。
団塊世代は全世界にある。
第二次大戦が終了し、帰還した兵士の子どもたちである。

その世代が65歳に足を踏み入れた。最後の団塊ももはや60代になった。

日本の高齢者は約3千万人。4人に1人が高齢者。
「超高齢社会」といわれるゆえんである。

65歳以上は「前期高齢者」。疑えば、将来は老人扱いしなくなる時期。今の若い世代は年金支給があればであるが、75歳以上となりかねない。
われわれは別名「食い逃げ世代」である。

75歳以上が「後期高齢者」。
これが命名されたときは75歳以上の人は怒った。
「早く死ね、と言うのか」と。
ちなみにその憶測はあたってないこともない。

いま、議員立法で立法化が諮られている「尊厳死法案」
「自由意思」の名の下の治療停止が意図されてないわけではない。
一方で依然多く無駄に進められている「延命医療」
そして難病等の人の必要な救命処置は不十分。
これを混同してはなるまい。

そういうことでは立法化するのはできるだけ待ったほうがいい。
主旨と異なる、「面倒をかけたくない」とする難病その他の心優しい高齢者の合法的殺人を招きかねないからだ。
こういう議論は呆れるほど時間をかけて論じていい。

今でも尊厳死を願う人間には公正証書で残したり、家族の理解を得てあれば9割の医師は本人や家族の意思に従うはずである。
今流行の「エンディングノート」に記すだけでもよい。

問題は意思を本人が残していないケース。
多くはそこまでしていないのだが、立法化はすべてに「自由意思での選択」を強いかねない。
そもそも多くの場合、80代以上の自由意思は疑っていい。

今、文書で終末期、死後の事務処理について文書で意思を書きとめられたケースは1割未満、なんてものではない。もっと低い。
最大が病状報告を求めるもので2.6%。
口頭で伝えられたのが37.7%。

80歳以上になれば自由意思どころではない認知症の危険があるが、そうなった場合の後見人を定めているのはわずか1%。口頭で希望しているのは14.1%。
すぐ迫ったリスクにもそんなものである。

75歳以上の人は約1500万人。昔と桁が違う。

偉い学者さんが

「昔は家庭で老人の世話をするのがあたりまえだった」

といかにも現代を倫理崩壊した社会みたいに論じているが、それは社会基盤がまったく違っていたからだ。
また、社会的介護などという概念もなく、苦しい家は介護で無理をしていた。
今と世帯の規模が全く異なる。世帯は縮小し、老々介護が増え、高齢者もこんなに多くなかった。つまり認知症患者も少なかった。例外的存在だった。

昭和初期全死亡者に占める80歳以上の死者はわずか5%未満。
今はどうですか。なんと50%を超えている。

全く状況が変わったのに変な倫理道徳を持ち出すこと自体が悪である。
今の社会的介護ができた社会でも不十分な介護体制の下、迷惑をかけているというきつい想いで生きている高齢者がいる。また、不十分な介護しかできないと悩んでいる家族がいる。

中には遺棄するがごとくの家族がいるが少数派である。
そういう報道に鬼の首をとったように吠えるが、あんたがエラそうなことを言って、善良で家族を精いっぱい介護している人をさらに脅迫するのか。
これは大教団の機関紙で読んだのだが、この教団も、こんなたわけた発言を掲載するのは言葉の暴力だと知らねばならない。

平成24年版高齢社会白書(データは平成23年度)に次のような記述がある。
社会保障給付費のうち、高齢者関係給付費について、平成21(2009)年度は68 兆6,422 億円、社会保障給付費に占める割合は68.7%。

これは何を意味するか。日本社会では高齢者福祉はこれ以上は担うことができません、と言っているのだ。政府が自民党政権の最後あたりから「尊厳ある死」を言うようになった背景である。

同白書によれば、75歳以上で「要支援」が1,038千人、「要介護」が3,015千人である。

「敬老の日」は今や喜劇である。
ほんとうに「自由意思」に基づく自己決定権を言うのであれば、

80歳以上になれば元気でいることもあれば、身体の自由がきかなくなることも、認知症になることもあり、このいずれに属するかは本人の意思でも鍛練でもなく、単なる運だと心得たらいい。

自己の終末を選択する自由は基本的にないし、あってもごくごく恵まれた少数者だけであり、そこに入るのはまさに「運」以外のものはない。

1日遅れの敬老の日特集であった。

きょうはちなみに9月18日。満州事変を日本が起こした日である。
中国が暴徒化するのも不思議ではない日。

しかし暴徒化しているのは「戦争を知らない世代」
日中両国の戦争を知らない世代が領土問題で愛国心を発揮して攻撃し合っている。

中国では暴徒化しているが、この間、中国や韓国、北朝鮮に対する日本人の嫌悪感は増している。
けっして健全なことではない。

偏狭な愛国心ほど始末に負えないものはない。

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「敬老の日」への1件のフィードバック

  1. いつの頃から「死」は「忌み嫌う」事だと脳に植え付けられてきたのでしょうか?
    天寿を全うしたご老人の親族へなぜ「お悔やみ」申し上げるのか、社交辞令も甚だしい。娘や息子はすでに70を越えて自身の面倒で精一杯だと言うのに、親の死が「悔やまれる」こともなかろうにと思う。
    あまりに物質を追い求めすぎて、人の命さえも肉体が存在していることにとらわれているのではないでしょうか?
    遠の昔に感情は消え、食べることすらしなくなった肉体が、何年も介護保険で生きながらえている。果たして本人の意向によるものか?単なる親族の自己満足か?主治医の成績表に記載するための生なのかもしれない。
    核家族化した昨今、義務教育での魂の授業を行い、我々が見えている世界は極々一部にしかすぎないことを当たり前に感じられる訓練が必要なのではないかと思う。
    そして成人には終末の選択を義務付け、親族や医師によって本人の意思に反する行為がなされないよう法律を定めておく。これは社会保障費の削減につながるばかりか、自己の心身に最期まで責任を持てるようになる。
    敬老会と聞いて「失礼しちゃうわね」と苦い顔。老いを頑なに受け入れない強さは不自然ではあるけれども、それがアンチエイジング=生きる強さにもなるのでしょう。

コメントは受け付けていません。