10月だというのにまだ温度が高い。
いったん温度が下がり「秋」になる前「は残暑」と言い、今かつての暑さに匹敵しても「残暑」とはもう言わない。
「秋晴れが続く」などという。
昨日に京都より帰ってきたが、全国みな似たり寄ったりの天気、温度で南が温暖で北が涼しいということも特にないようだ。
私も夏用ジャケットをもつようになったが、きょうはその下は半袖のTシャツである。
衣替えという雰囲気でない。
夏用ジャケットの出番がやっときたという感じである。
前に使用していたUSB接続のハードディスクをまた接続しようとしたらうまくいかない。
最初はちょっとマニュアルを見ながらやり、そう苦労した感じがない。
どうしたものか、としばらくやってみたがうまくいかない。
それで思ったことなのだが、日常やり慣れた動作がふとうまくいかないときがあると、何か突然迷路に入ったかのようで、自分にえらく自信がなくなる。
私も60歳を過ぎて、時折そのような症状が出る。
一方で歳を重ねると新しい事態を受け入れることが少しずつ難しくなり、意固地になったり怒りやすくなる。
他方、すごく落ち込み自信をなくすので一見優しく心が寛容になったように映る。
心理状態は似たようなもので、先ががんこ爺がんこ婆と言われ、後ろは優しい老人になる。
これは一人の人で一貫しているわけではなく、同じ人間が場面を替えて違う方に簡単に転移する。
ある時はがんこ爺で、ある時は優しいお爺ちゃん、というわけである。
両親が死ぬと次は私の番である。
親たちを見ていた経験から言えることが2つある。
一つは、高齢者に考えを改めさせることは断念した方がいい、ということだ。
そんなに柔軟ではなくなっているし、子世代や孫世代は本人によかれ、と思って忠告するのだが、難しい。
そこではわかったように答えていながら、次の段階では戻る。
それを攻めると、怒り出す、沈黙する、自信をなくする。
それが「世界平和」に関することでも「健康な食生活」に関するものでも同じである。
徒労なのだ。非難すべきことではない。
いずれ自分もそうなるのだと知ったほうがいい。
たとえ自分の信条に反することでも、時間をかけて説得するより、その人格を許容するほうがいい。
もう一つは慣れ親しんだ動作ができなくなった時、「忘れっぽくなった」と開きなおるのでなければ、自信が揺らぐということだ。
これは結構深刻である。
誰でも歳をとれば起きうることなのだが、それはほんとうのところ言い訳にはなっていない。
60歳を超えた時にはあまり感じなかったことだが、65歳を超えてから言われていやになる言葉がある。それは
「若いですね」
という言葉だ。
同年輩はそんなことは言わない。
上の人間が言う時には「おまえはまだまだ」とかいうニュアンスで褒めているわけではない。
「80歳になったらわかるよ」という顔をする人もいる。
「若いですね」というのは自分より10歳以上年齢が下の人間である。
そしてその半分以上はお世辞である。
あるいは
「若い気でいるがあんたは十分年寄りだぜ」
とからかっている。
いずれにしても不愉快である。
しかし、そんなことを気にしない同級会に顔を出すと、見た目で言うならば確かにみな同じ歳なのに-10歳~+15歳くらいの開きがある
。つまり外見差では±15年くらいの開きがある。
どうも55歳過ぎたあたりで見た目の開きが出るようだ。
どっちがいいという話ではない。
私はというと、自信をなくす体験をこのところ重ねているものだから歳相応に見られたい。背伸びをしたくないからだ。
今度の京都行きも、楽だからリュックにした。今年の夏から採用。これだと小さくても手で持つと重いパソコンを携帯するのも楽である。
直すなら整形で手術をしないとと皮膚科の医師に診断された、足底の皮膚の奥にできた塊が当たり痛いので、底に伸縮性がある偽革靴スタイルである。
靴下は足首が絞められるのがいやで短いのを履く。
歳というのは、外見だけではなく、内臓にも、皮膚にも、思考力にも、感性においても、である。
外見は若くとも感性が年齢以上に老けていることもある。
また、若けりゃいいというものではない。
平均寿命が年々高まっている。
社会保障・人口問題研究所が新しい将来推計を大幅に改めたのも想定以上に長生きしていることに大きな要因がある。
でも、誰もが平均寿命まで生きることを意味しない。
おおざっぱに言うならば平均寿命までに約半分の人が死に、半分の人は平均寿命より長生きするということだ。
しかも気をつけなければいけないのは「平均寿命」は「0歳時の平均余命」を言っている。
死のリスクは誰にでもあるし、なかなか死ねないリスクもある。
認知症が増えたのは80歳以上の高齢者人口が増えたからである。
しかも昔はいなかったのではなく、認知症、障害者は「家の恥」とばかりに座敷牢に閉じ込められたケースもあった。
「お年寄りは家族が面倒をみる」というのは美徳とされてはいけない。
それが困難な人も多いし、その人たちに罪悪感をもたせかねない暴力的な言葉にも転化しうる。
今のような社会的介護が言われる前には、家族が人知れず苦労したケースも結構あったのだ。
美徳を人々の苦悩を見ることなしに言ってはならない。それは現代社会を見ないあまりに不感症になった年寄りの戯言である。
高齢者個人が言っている分にはかまわない。今更その人の考えを変えるのは困難だからだ。
しかし社会的立場のある人の発言として新聞や雑誌が取り上げてはならないと思う。
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