いま、寺が求められていること

2週間ぶりくらいの更新になる。
どうも最近は併行作業があまりできなくなった。
前は「気分転換」にブログを書いたりしていたが、何かの作業に入ってしまうともうだめである。
併行作業をしないといっても別の複数の仕事の締切があるので、「きょうはこの仕事」と決め込んでやるようにしている。

雑誌での特集記事をまとめ上げて、今朝から印刷会社に入っているが、特集のタイトルは

いま、寺が求められていること

いま、寺の数は約7万6千、布教所など入れると約7万7千。コンビニの数が約5万かなり多い。僧侶の数も各宗派合わせてであるが約35万人もいる。農林・漁業の従業者数が約39万人だから、いかに多いかがわかる。

こんなに多いのだからおかしな寺やおかしな僧侶がいてもあたりまえである。
教師、僧侶(宗教者)は「聖職」といわれ問題児が出ると、すぐマスコミの話題、餌食になる。
そこで信用も落ちるのだが、メディアは報道のインパクトを考え、「聖職者」という看板を降ろすのを許さない。

世の中に「聖職」なんてないし、「聖職者」といわれるべき人間なんかいない

ということを社会的常識として受け入れなくてはならない。

「聖職」という概念を残すのはある意味で差別であると思う。
だいたいが自らを「聖職者」であると公言するのにろくな奴はいない。
「尊敬されてしかるべき」と思っているのだから手に負えない。
ごくごくあたりまえのことだが、いい僧侶もいればおかしな僧侶もいる。

何せ日本の葬式の約9割は仏教式で行われるのであるから、葬祭業者と僧侶との関係は近い。しかし、多くの場合、お互いの関係は微妙である。
葬祭業者は陰では僧侶の悪口を言うか、無理な期待を押しつける。
僧侶は「葬儀屋」といって蔑むことが多い。
といっても最近は「それぞれ役割がある」と良好な関係を保とうとする人たちも増えてきてはいる。だが、ちょっと間違うと「癒着」にもなりかねない。

今回の特集では主に僧侶自身の口で語ってもらった。外から無責任な発言するより、僧侶自身の模索の様子を知りたいと思ったし、こうした僧侶もいるんだと知ってほしかったからである。

座談会では高橋隆岱さん(真言宗)、白川淳敬さん(浄土真宗)、互井観章さん(日蓮宗)の3人に語ってもらったのだが、3人の方がそれぞれ課題をもっていてとつとつとではあるが本音を語ってくれた。
実は座談会を進行させながら盛り上がりに欠けたと思い、追加の原稿をお願いしたのだが、録音を整理した原稿をみたら、けっこういい内容で充実したものだった。追加の原稿もおもしろかった。
派手ではないが、いいものに仕上がったと思う。

もう一つは、長野県松本市の高橋卓志さん(臨済宗)に原稿を頼んだのだが、高橋さんは年末から1月は葬式がたくさん入り、まさに走りながら、そこで考えたことを書いてくれた。高橋さんには原稿枚数を決めないで頼んだのだが、締切を過ぎて膨大な原稿が送られてきた。この人の葬式に取り組む姿勢も時間も労力も半端ではない。
残念ながら、全部の掲載は諦め、半分を次号にまわした。
次号に回した分は個々の葬式の具体例でまさにドキュメント。おいしいところは後で食してもらおうと思う。
この高橋さんの原稿を読むと、一般的に僧侶と葬式の関係をイメージしていた人にとっては、僧侶でさえ、驚くべきものである。

僧侶ばかりではいけないので一人小谷みどりさん(第一生命経済研究所主任研究員)にも書いてもらった。
小谷さんが最近は身延山大学客員教授を務めたり、日蓮宗その他で僧侶向け講演を精力的にこなしているのを知っているので、「僧侶向けの話を原稿にしてくれ」と気楽に友達付き合いで頼んだら、依頼の分量ぴったりに、原稿締切にぴったりに、論理明解で辛口の「葬式仏教の公益性」という、期待を大きく超える良質な原稿をくれた。

今回の特集A4で32ページであるから半端でなく多い。普通の本のサイズなら100ページをゆうに超える。期待してもらっていい内容に仕上がった。

ところで2月5日(月)朝日新聞名古屋本社版の朝刊を読んだ人は驚いただろう(大阪本社版にも出たが、なぜか東京本社版には出なかった。朝日新聞ディジタルには半分だけ掲載された)。

一面左に「僧籍ない見習いが通夜 興正寺派遣『知らぬ作法省略』 憤る遺族」という記事がでかでかと掲載された。
また31面いわゆる社会面のトップに「法話、ネットの話参考 興正寺元見習い『謝罪したい』」という詳報が掲載された。

興正寺というのは高野山真言宗別格本山であるから並みの寺ではない。格式の高い寺である。案外とこんなでかい寺がおかしなことをするものである。

興正寺がハローワークに「僧侶見習」の求人を出し、応募した見習が2年未満の見習期間で高野山真言宗の僧籍を取らないまま1人で通夜を勤め、法話もした。本人はわからにところは飛ばし、法話はネットで浄土真宗のサイトで見つけたものお自分の経験に置き換え話した、というもの。
要するに寺自体が行った「僧侶派遣」である。

首都圏だけではないが「ビジネスとしての僧侶派遣プロダクション」がけっこうあり、中には無資格の僧侶もいる。これはもはや珍しい話ではない。しかし、この事件の新しいことは、大宗派の別格本山が「無資格僧見習をあたかも自寺の僧と偽って派遣」したところにある。
興正寺の住職へのインタビューが掲載されているが、「一人前に至ってない者を我々の中で見習いと呼んでいるだけ。対外的には正僧侶だ」と開き直っている。
その後、この見習は寺から「勤務態度が悪い。衣を返せ」と契約更新せず首になった。

問題が明らかになったのは、この元見習が「不当解雇」で訴えたことによる。

実は私は名古屋本社の記者から事前に取材を受けていた。だから「法律や宗派の規則以前に、信義上の問題がある。寺は遺族に謝るべきだろう」というコメントが名古屋版には掲載された。

「宗派の規則以前に」と言ったのは、宗派により僧侶資格認定の仕方はさまざまで、けっこういい加減なところもあって、僧侶派遣プロダクションでは、その宗派の教えに共感するからではなく、その宗派の僧侶資格認定が簡単だから、という理由で簡単に資格認定を受けて「正式な資格をもった僧侶を派遣する」と宣伝するいい加減なものが少なくないからだ。

問題は「僧侶資格があるかどうかではない」ということだ。

これは仏教に限らないことだ。宗教の教師(僧侶)資格認定なんて頼りにならない。問題は教師(僧侶)個々の資質にある。

約35万人は資格認定を受けた僧侶である。資格認定受けたから「聖職者」だなんてちゃんちゃらおかしいし、その資格をもたない半人前を「正僧侶」と偽って派遣した寺もいい加減である。
資格にこだわるべきではないことは古代から近世にかけて民衆の中に入り、仏教の民衆化に貢献した僧の中には「私度僧」などと呼ばれた未公認の僧が多くいて、そのおかげということもある。

しかし、別格本山と言われる大きな寺でさえこんないい加減なことをするのだ。真面目にやっている僧侶にとってはえらい迷惑な話である。
少なくとも高野山真言宗ではこうしたいい加減な別格本山をなんらかの形で処分し、方向性を打ち出すべきだろう。
私の知人に高野山真言宗の僧侶の方がけっこういて、尊敬すべき人、真剣に取り組んでいる人が少なくない。この人たちを守るためにも教団は厳しい処置をとるべきだろう。

改めて言う。「聖職」はないし、「聖職者」なんていっこない。
いると言っている宗教者も一般の人も、何かをごまかそうとしているように思う。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/