メールの返信のことなど―単なる鬱憤晴らし

空がどんよりしている。天気予報どおりに午後は一雨くるかもしれない。

きょう書くことははなはだつまらないことだ。
鬱憤ばらし、と思ってくれていい。

一つは「メール」に関することである。

私も完璧ではないので偉そうなことは書けないのだが、最近
「これがどうなっているか連絡してくれ」
という依頼メールに回答しても、そのあとうんともすんでもないメールが多い気がする。

「受け取りました」「了解」

だけでもいいのだが、何もないと相手にきちんと伝わったのか、用がそれで済んだのか、こちらはわからず気にかけていることになる。

先方はおそらくこちらの回答で用が済んだのであろうから、それは1件落着とばかり忘れてしまうのだろう。

でも回答したほうではそうでは気分が済まない。

電話であれば通話中に用件が済んだことがわかるので、そのままでもいい。
だがメールは送った記録は残るが、それで先方の期待したものであるのか、心配する。
ま、回答して先方は用が済まなければまた連絡してくるだろうから、と回答した段階で忘れてしまう手もあるだろう。
しかし、私はそういうタイプではない。
他人から見れば「めんどうくさい」のかもしれない。

私も回答を寄せないケースはある。
たくさんの人に案内がきていて自分はおそらく出席しないだろう、今からその予定を入れておくのはもったいない、というときである。
質問へ回答しないこともある。
学生さんがあまりに大きなテーマについて質問してきて、それに答えるのはかなりたいへんな場合、そんな大きな負荷のかかる質問だぞ、ということを示すためには無視することがある。
機嫌のいいときは「それについて答えるとすると、私はまる3日間それに取り掛からなくてはいけないので、具体的に絞って質問し直してくれ」くらいは答えることがある。

「メールでトリをとる」つまりメール交換の最後を締める役だが、私がけっして勝てない人がいる。40代前半なのだが、彼には負ける。締めたつもりがもう一度かえってくるのだ。

話は変わるが、研究職にある者への悪口である。

私は20年以上、死と葬送について考えている人間として、この分野を扱う研究者のいい加減さについて怒っている。
もうこちらは書く仕事としては終末期にあるので、遺言みたいな気持ちで語るのだが、中身について真剣な取り組み抜きで安易に学問対象としている者が多すぎる気がする。
そこで生み出される論文がなんと低レベルなことか。
また、それが検証されていない。
検証不要で論文の価値は研究職だけに通じる約束事だけではかられているように思うのだ。頽廃以外の何ものでもあるまい。

私は、学生さんや研究職にある人の質問には比較的丁寧に答えるようにするのだが、その結果の論文が送られたためしがない。
こちらもばかではないから、この人はこんな本を読んでいるな、と感じることがある。
だが参照文献にこちらの名前が載るのはほんのわずかである。
ほとんどの研究職の人間の参照文献に掲載されることはない。
掲載されているのは同じ研究職の文献かそうでない場合、島田裕巳のようなベストセラーばかり。
島田が変なデータを引用したのを検討せず「島田の~によれば」と問題を拡大再生産しやがる。アマチュアめ、と思う。

反対に研究職の論文はいかに拙くても掲載される。なかにはえんえんと自分の発表した論文を、しかも程度が低いのをあげる馬鹿がいる。

研究職は蛸壺という批判が40年ほど前にあった。
その域を出ていない。

中には基本がわからないから教えてくれというので長時間をとって教え、私の書いた関係する本をただで提供したのに、書かれた論文にはどこにも書かれていないというケースさえある。日本人だけではない。こんな恩知らずは。
こんな扱いをするなら最初から来るな。時間泥棒だ。
そしてどうでもいい、研究職が書いた、という以外に何の価値もない論文が引用されたり、参照文献にのっている。

これが通例になっているところをみると、研究職の論文には研究職のみの論文を参照する、というルールがあるのだろう。
いっそのこと、私は今後書くたびに「研究職は読むことを禁ず」と断らないといけなくなる。
中には大きく参考にしておき、参照は文庫本のほんの一部だけ掲載しているのもある。知っている者だけに腹立たしいことがある。

こちらの知識等はやはり蓄積があってのことである。また、見解をもつにはそれなりの根拠があってのことだ。その結論に至るには相当考えてのことだ。

「しょせんジャーナリストなんて大した者ではない」
「研究職がジャーナリストの書いた物を引用したり参照することは恥ずかしいことだ」
とでも思っているのだろう。
そう思っているなら会ったとき「一応話は聞くが役に立たないことがわかって聞いているのです」と言っておいてほしい。
こんなガキ学者が幅を利かせるなんてそもそもつまらない「学界」なのだ。

あるもう定年に近いだろう研究職は、私があるテーマについて細かく既に書いて公表しているにもかかわらず、自分があたかも最初に書くことのように書き、圧巻だったのは巻末の引用文献に自分の書いたものだけを並べた。
こんなやつとは付き合いたくない、と本気で怒った。

私はもうそろそろ書くことを終える人間である。
歳若い研究職がつまらない蛸壺にいつまでも入っていてではどうしようもないだろう、と思う。
そんな中途半端な視野で論ずるほど対象は甘くない、ということを知っておいてほしい、と思う。

そもそも「葬送」はさまざまな視野から見ないと見えないテーマだ。
ある若い研究職を目指そうとしている人間は、文化人類学を専攻としている者が書いた論文以外は参照文献にあげていなかった。
私の書いたものを完全に無視しただけではなく、社会学専攻の者が書いた文献まで無視した。アホか…

ある学会で基調講演をしたことがある。そのテープ起こしが送られてきた。
私は話す言葉が乱れすぎているので、いつもテープ起こしをされる方には申し訳ない気持ちでいっぱいになる。その時もそうだった。
そこでいつものことだが、そのテープ起こし原稿を横目で見ながら最初から書く。直すより新しく書くほうが圧倒的にはやいのだ。

そして書き直した原稿を送ったのだが、うんともすんとでもない。
あまりに学界研究について暴言を吐き、あまりにレベルが低いので蹴られたかなと思っていた。

8か月以上経過後、その紀要がとっくに出ていて、各大学関係者には回っていたことがひょんなことでわかった。
直接言ったら送ってきたが、なんかな、と思った。
基調講演しても発送を忘れられる存在なのだ、と。
われわれ編集者には考えられないことだ。

大学では将来研究職を志そうとしている人間にいったいどんな学問の方法論を教えているのか、と暗澹たる気持ちだ。
またそんなレベルの「研究」しかしていない、しようとしない若い研究者を残念に思う。

本日は単なるうっぷんばらしのブログであった。

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/