宗教というもの

青木新門さんが日記で

悟りとは気づきでもある。「諸行無常」と気づくのも悟りである。
そして完全な悟りとは、どんなことが起きようと、平気で生きてゆけるようになることだと私は思って居る。

書いていらっしゃる。
近年の新門さんの傾向が端的に表現されている。
こう断言されるところに新門さんの現在の境地があるだろうし、こうした地点に立って、新門さんは鋭くなられた。

これについて私がいえば

人間悟ることはないだろう

となるだろうか?

私は、自分が愚者であることを承知して、あるいは、愚者でしかないと思っているので、他人が「悟る」ことに関心は少ないのだが、

悟っている、と断言する者にろくな奴はいない。

と思っている。
(これはけっして新門さんを批判するものではなく、新門さんとの違いを言っているのだが)

これはプロテスタントの中でさんざん「信仰義認」か「行為義認」かがいわれ、
「行為はもとより信仰すら何ら価値のないもの」
であるにもかかわらず、義認されるかどうか一部の福音主義者が自分たちの唱える信仰を承認しない者は許さない、と神でもないのに断言し、宗教共同体から外していく言動をみていると、その結果、当然にも私のような者は「異端」とされるのだが、何らの宗教的価値を否定せざるを得なくなっている。

「私はこう信ず」
ということは、違った他人の信仰を否定することになるとおかしくなる。

信仰というのは他人の考え、信仰、信条とまったく違った地平でのみ語られるべきなのだ。
そうでないときわめて危険なものになってしまう,と思うのだ

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/