晩年

60代になったあたりから同級生が死にだし、先日は62歳の従妹が死亡。72歳の姉ががんが再発、
といっても前のは40年前になるので、「再」発ではないかもしれない。
ステージ4で本人は無治療を選択した。

一人暮らしをしている友人にメールを送ったが返事がない。―こういう時はつい最悪の事態を考えてしまう。

「人生80年」という時代を迎えたが、それはあくまで平均の話。
80歳より先のことについて、ほんの一部の人を除いては、自由意思での選択は難しくなる。

尊厳死法案の問題で「自由意思」の中身が問われた。
高齢者からアンケートをとると、「どこで死にたいか?―病院」「どこから送られたいか?―斎場(葬儀会館)」というのが多い。
「本当は?」と重ねて訊くと
「自宅で死に、自宅から送られたい」のだが
「迷惑をかけることになるのでできない」
という回答となる。

延命治療も本人が生きて、それが家族や周囲の人の望みであるならば、悪い選択ではない。
私の恩師は人工呼吸器をつけて10年以上を生きた。
意思表示はできたし、何よりも周囲が本人が生きることで、力を得ていたようだ。
外見的には近親者に負担をかける行為ではあるが、それを超えて存在することに大きな意味がある場合はたくさんある。

「自由意思」は万能ではない、ということをどこか心の片隅においておく必要があるように思う。

自分の体験からいえば、65を過ぎたあたりで、死が特別のことではないように思えてきた。年下や同級生が死ぬことが珍しい出来事でなくなってきてからだ。
さらに自分の体力が落ちてくる。

もちろん80,90,100を超えても元気な人がいる。
でも元気な人を基準に考えるべきではないだろう。
元気な人は素直にそれを喜べばいい、だけの話である。

尊厳死法案の背景には医療費のかかる病弱な高齢者は社会の負担、という論理がどこかに透けて見える。
尊厳死の選択はいい、しかしあくまで本人や家族の自由意思が完全に保証される必要がある。

従妹は献体を選択していた。
だから葬式は慌ただしいものとなった。だがその前に50日間の文字通りの終末期があった。だから家族も納得した。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/