本日8月6日は広島原爆忌。
1945(昭和20)年8月6日朝8時、米軍爆撃機が広島上空で原爆を投下。
まさに焦土と化した。
その被災国が「作ろうとすれば短時日で核兵器をもてる」というのが「核抑止力」になる
…というのが昔、中曽根と正力が核平和利用をうたった原子力発電所開発に方向を転じた公然たる秘密。
その「秘密」がまた自民党幹部の口からあたりまえのように口にされる。
愚か者よ。
ヒロシマ、ナガサキを体験した人は奥底まで核廃絶を祈るが、遠く立っていたものは、それさえ他人事だという話。
この愚かさは人間につきまとう。
東日本大震災のことでも、同じ市でも被災した海岸線と被災しなかった地域とでは意識が異なる。
家族に死者や行方不明が出た家とそうでない家ではやはり違う、
残念ながら状況の差による意識差を人間は超えられないでいる。
自分の中にもそれを感じる。
復興は大切なことだが、行方不明の家族を抱える者には行方不明者のことを置いて復興に走る姿にはどうしても感覚的に違和感を感じ続けている。
元気も大切だが元気になれないことも大切にしようよ、と思う。
3.11の教訓の一つは喪われたいのちがかくも過酷であること、死者行方不明者が「済んだ話」ではなく、その記憶がもっともっと大切にされ続けるべきこと。
それは「話」ではなく、現地の死者、行方不明者をもつ家族が心に抱える大きな現実であると思う。
何ができるわけではない私はこの一事にこだわろうと思う。
東京に来れば、震災の最大の記憶は「帰宅難民」だったことに矮小化されがちであるし、関西に行けば明らかに温度は低下する。
九州に行けば「たいへんだったね」と言うが、どこか他人事に聞こえる。
フクシマは依然として終息していない。
高濃度の放射線を今でも海に垂れ流している。
当時、復旧活動に動員された人たちは末端生活者でその健康被害は放置されたまま。
東電が行った作業はもちろん東電社員もいたが、そこで動員されたのはより高いペイに引かれて、ろくな情報も防具も健康管理も受けず、前線に入った人たち。
若者の福島県からの流出は依然として続いている。
原発周辺の地方自治体は原発の安易な再開に拒否の立場を崩さない。
当然のことだ。
だが、それでも現地は再開を希望する。
いったん事故発生したら逃げどころがないにもかかわらず。
その町は、それ以外に生きる術を失われた町だからだ。
哀しいなと思う。
改めて思う。
人間は手にしてはならなかったものを手に入れてしまった、と。
ナガサキ、ヒロシマ、敗戦を強く記憶にとどめる夏の8月。
11年に東日本大震災で宮城県で仮埋葬されたのは約2千体。
仮埋葬された柩の掘り返しをしていた建設業者がその遺体の解体過程にある生々しい様子、そして圧倒する臭いに、ついに仕事を放棄したのも夏であった。
この湿気の高い猛暑である。逃げたからといって非難できない。
それを引き継ぎ、黙々と、そうしたリアルな遺体を尊厳ある者として取り扱い、再度納棺をし直し、遺族の待つ火葬場に届けたのは現地の葬儀社の若い人たちである。
彼らはこの体験によって「プロ」になったのだと思う。
彼らの仕事はそれほど広く認識されていない。
死者と遺族の関係を取り戻す葬りは彼らがいなければできなかった。
そういえば、掘り起こしの現場に、仮埋葬された子の姿を確認しようと来た若い父親がいた、という話を掘り起しを行った人から聞いた。
親にとって、どんな状態になっていようと、それはわが子なのである。