きょうも暑い。
68年前、各地で違ったろうが、私の記憶にないその日は、やはり、陽が照りつける暑いイメージだ。
天皇によるポツダム宣言受諾=敗戦、を受け入れずにその後、数は少なかったものの特攻出撃し、死んだ者もいた。
そうした例外も少なくなくあったが、それ以前の本土決戦の煽りに比して、日本人は敗戦を比較的におとなしく受け入れたようだ。
天皇の判断、という当時の大権を保持した天皇の決断を受け入れた、ということもあろう。
2・26のことを考えれば、天皇の判定に異議を唱えることは賊軍になることを意味したから従った、という人たちもいたろう。
長い激しい戦闘で消耗し、燃料、食糧、体力、気力…あらゆるものが限界を超えた結果ともいえる。
第二次大戦の戦没者数は日本人の場合、軍人・軍属といった軍関係者の死は約230万人、民間人約80万人の計約310万人(推定、以下同。8月15日の武道館での戦没者追悼式でNHKは約310万人と言っていた)。
日本人戦没者の死亡の地は、多い順に日本本土約70万人、フィリピン約52万人、中国本土約47万人、中部太平洋諸島約25万人、満州(日本傀儡政権下であるが)約25万人、沖縄約25万人、ビルマ(ミャンマー)約14万人、東部ニューギニア約18万人、ビスマーク・ソロモン諸島約12万人…。
戦没者の76%が本土以外での死。
戦争は1945年8月15日をもって終わったが、実はその前年に勝敗は決していた。1945年の戦闘は、なくてもいい戦闘だった。
1945年1月以降の主な死者は以下の通り。
硫黄島 日本人死傷者約2万人、米軍死傷者約3万人
マニラ市街戦 日本約1万7千人、米軍約1千人、フィリピン人約10万人
沖縄戦 本土出身軍人約7万人、沖縄の人約18万人、米軍約1万3千人
特攻隊 約6千人
空襲 東京約9万人をはじめ全国で約24万人
原爆 広島約20万人、長崎約14万人
おそらく日本人戦没者約310万人の3割以上が最後の年に集中している。
満州にいた軍人中心に約70万人が戦後シベリアに10年間抑留され強制労働を課せられたが、この結果約6万人が死亡。
太平洋戦争の日本人戦没者は約310万人と夥しい数である。だが、アジアが戦場と化したことで日本人戦没者数の6倍以上の約1900万人以上がアジアの他国人の戦没者であった。この事実は重い。
内訳は中国1千万人以上、ベトナム約200万人、フィリピン約110万人、朝鮮半島約20万人、ビルマ(ミャンマー)約15万人、マレーシア・シンガポール10万人以上、台湾約3万人、…
第二次大戦全体では推定だが、軍人約2300万人、民間人3000万人の計5300万人(以上)となっている。
ここに上げた数は戦没者、つまり死者の数だけである。傷害を受けた人、家を失った者等はこれの10倍以上ではきかない。
日本軍で「戦死者」とされた者に多数の感染症による死者、餓死者がいたことも記憶されるべきだろう。
今朝、車の中のラジオで聴いた話。視聴者の話を紹介していた。
天皇の8月15日12時からのいわゆる「玉音放送」の時、父親にどうしていたかと訊いた。父親は、重い口で「死んだ仲間の埋葬をしていた」とこたえた。
満州から帰還の行程で多くの人が倒れて船に乗れなかったこと。
帰還者の多くは、その帰途に倒れ死亡した人の火葬や埋葬に立ち合っていた、あるいは置き去ったこと。
沖縄では地上戦があり、艦砲射撃で多くの民間人も死んだこと。
東京大空襲で下町は火に覆われたが、地方都市の多くも空襲にさらされたこと。
ヒロシマ、ナガサキでは戦後も原爆症で多数の人が死んだこと。
死が日常であった時代があった。
その時から68年が過ぎたが、それはそのまま私らの世代の生涯の長さである。
私らの世代は戦争の記憶を刻印されてこの世に誕生したようなものである。
1947年生まれから年間出生数200万人以上というベビー・ブームの時代が始まるが、それは戦争から帰ってきた元兵士らの子どもたちだ。それは日本以外でも同じ現象が起こった。