死者を利用してはならない

どういうわけか2か月間、このブログを放置したことになる。
というより気持ち的に余裕が失われていたことが書かなかった理由である。

今年1年、気持ちが落ち着かない日々を暮していた。
個人的には従妹の50日にわたる終末期と死。
重なるように姉のがんステージⅣの告知とたび重なる入退院。
姉は今自宅療養中であるが、事態は確実に進んでいる。
大腸ががん細胞に圧迫されてのたびたびの腸閉塞は、バイパス手術で今のところは乗り切ったが、今度は肝臓がんの進行で胃を圧迫しているようだ。
穏やかに新年を迎えてくれるといいが、これはわからない。

世代交代とは、前の世代と次の世代とが重なりながら進行する。
60代を過ぎると、この境目の重なりが多くなる。
前の世代が80後半より上、生きているとしても何かしらの障害を抱えることが多い。
それを介護する次の世代で、早いのは前の世代を追い越して先に逝く者が多くなる。
前の世代は次の世代の先行した死を沈黙して淋しく受けとめる。

長生きすることは、こうした悲哀をも経験することである。

65歳を過ぎて経験することは、体力の弱まり、体型の崩れだけではない。
前の世代の死が頻繁になり、同じ世代からも先行した死が珍しいものではなくなることだ。
時には後ろの世代の先行した死がある。
やりきれない想いを抱えて生きている。

きょうは12月28日。
帰省ラッシュが始まっている。
今年の年末年始が珍しく揃っての9日間。

東京の今、昼は陽も射し、穏やかである。
日本海側はもう真冬の荒れた気候になっているらしい。

私の年末年始は1日くらいを除いて通常どおりとなる。
これは例年と同じである。
年末年始に原稿をこれだけ仕上げる、と遅れた原稿の処理を皮算用して、例年予定どおりにいかないものだから、今年は2つに絞った。
どうなるものか…

政治のことを考えると血圧によくない。
2013年の後半から昨日のことまで、腹立たしいことが続いている。
自民党の大勝という選挙結果がもたらしたものは大きい。
安倍内閣はしたい放題。

日本軍の戦死者、それも多くは大日本帝国の無謀な戦争でいのちを落とした人たちであり、また沖縄、広島、長崎、東京、満州…と甚大な民間人の死者を生んだ。
それが300万人という途方もない数字である。

だが、戦地となり、巻き込まれたアジアの人々の死は、日本人戦死者総数の3倍近い1千万人以上。

こうした戦禍の事実を無視して、民間人の死者も除いて、大日本帝国陸海軍の戦死者だけを追悼する、というのはいかに恣意的であるか。
自分の家族を弔うという私事とは異なる。

死者の追悼は残された者の義務でもある。
第二次大戦による死者を追悼するのであれば、すべての死者に対してなすべきである。
それをイデオロギーによって散々汚された場所にのみこだわるのは、もはやある目的をもって意図的に行っているものと見なさないわけにはいかない。
ここには死者への弔いはない、というべきである。

議論の中にA級戦犯を祀っているから反対だ、という意見がある。
これは死者に対する態度としては誤っていると思う。
当時の政治・軍事指導者のなしたことには、歴史的に究明することで行うべきである。もはや無化した死者を口実に使うべきではない、と思う。

しかも戦争に責任を負うべきは、一握りの政治家、軍人だけではなかった。マスコミも宗教界も民衆も煽り、協力したではなかったか。
それをなかったことのようにして一部指導者だけの責にすることは頽廃だ、と言うべきである。

アジア諸国の人がそれを口実に非難するのはわかるが。
だが日本人には、第二次大戦の死者を区別する権利も手段も基軸も生者にはない。

これは戦死者に対することだけの問題ではない。
死者を区別、差別することは刑死者、自死者に対して連綿としてあった。
われわれの社会は差別の塊のようなものであったし、未だにそれを解消できていない。
それはなすべきことではない。
それと同じで、死者に対し、どんな政治利用もしてはいけないのだ、と私は思う。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/