尊敬する先輩(ほぼ10年、年長である)青木新門さんの『それからの納棺夫日記』(法蔵館)が2月10日発売となる。
おそらく新門さんの原稿を毎号雑誌に掲載させていただいている縁で、発売日前に新門さん直々の清冽な文字で送っていただけた。
この本ができるまでに数年を要したことを知る者としては早速、謹んで読ませていただいた。
全体の構成はこうだ。
序 『納棺夫日記』と映画『おくりびと』
第1章 死の現場での体験
第2章 死ぬとはどういうことか
第3章 死者たちに導かれて
第4章 いのちのバトンタッチ
序では、原作者でありながら映画『おくりびと』の製作を許可しながらも「原作者」との表示を頑なに拒んだ新門さんの考えが書かれている。
『納棺夫日記』の後半部の宗教に関する(「光につつまれる」ということ、と翻訳してみようか)部分を思いっきり削除し、それ以前の遺体を処置することを仕事とすることで出会うさまざまなストーリィだけで描いた『おくりびと』に対して、新門さんが『納棺夫日記』でほんとうに伝えたかったことを中心に書いたのが本書である、と言えよう。
そういう意味では『納棺夫日記』の後半部をつまらない、として読まずに終えた人は最初から対象にしていない、と言えよう。
だが本書も似たような構成である。
序は「ヒット映画の裏事情」、ととらえることも可能である。
第1章と第2章は、新門さんが行った大人気の講演、必ず90分以上は話すという、「いのちのバトンタッチ」と題して行われた2千回(比するのもおこがましいが、私のこの間のほぼ10倍近い凄絶な回数である)講演で語られた内容の変奏曲である。
私は、これを読んで改めて新門さんにおそれいったのであるが、新門さんが実際に行った講演を目の前で聴かされている想いがした。
「あ、新門さんの講演はそのまま文章になるんだ」と感心した。
私のことを言うのはおこがましいが、2年前ほどに行った私の講演を記録に残すというので、おそらくたいへんな苦労をされてテープ起こしをされた文章が送られてきて、あまりにあちこちに飛んでまとまりのない話をしたことに自分で呆れ、何を話したかは参考にし、完全に再構成、つまりは新規に書き起こすことで年末年始をつぶしたのだ。
新門さんの場合は、今回の1章、2章の原稿が先にあって、それが2千回もの講演になったのでは、と思わせるほど言文一致なのだ。
そういう意味では、新門さんの講演を聞き逃した人には、この2つの章を読むことで、講演の内容に接することができる、お得感のあるものだ。
ところが第3章になると、新門さんの宗教観が全面展開される。
ここでもしかすると『納棺夫日記』の後半部に違和感を感じた人は同じようにつまづくだろうし、新門さんのフアンにはこたえられない展開となるだろう。
近代、現代の仏教界、シンパシーを感じているはずの浄土真宗(特に、「お西」=浄土真宗本願寺派、「お東」=真宗大谷派)の人たちにも喧嘩を売っている。
愚者である私など、新門さんがあまりに美しい世界を説きすぎる、という感想をもったほどである。
だがこの本の醍醐味は、それは第1章、2章、3章と読み継いだからなのだが、すばらしい展開を見せる。それは映画で言えばフィナーレの大興奮である。
この書全体が一つの大きなストーリィであると実感したのだ。
内容は、ここでは書かない。自身で買って読んでほしいからだ。
この第4章を書くために『納棺夫日記』も第1章も第2章も第3章もあるのではないか、と感じた。
この本にはもう一つの興味深いものがある。
この本の表紙を木下晋画伯に頼んだのだが、木下さんとは何度か新門さんと一緒に呑んだ仲であるが、この絵がすばらしい。
新門さんはあとがきで「光の中を飛ぶ『赤トンボ』と、それに手を合わせる『合掌』の絵をお願いした」と書いている。
この赤トンボはすぐ見つかるのだが、合掌を見つけて見た時は感激である。