揺れ動く日本人の死生観
変わる葬送
3回に分けて掲載する。
第1回 葬送は戦後二度目の転換期、高度経済成長が招いたもの
第2回 バブル崩壊以後の個人化、超高齢社会の到来
第3回 日本人の死生観と神葬祭
※再掲載にあたり、データは基本的に当時のまま、とした。
日本人の死生観と神葬祭
仏教の葬祭仏教化が庶民化のカギになったが、これは中世末期から近世初頭の戦国時代にあたる。
それまで貴族・武士の宗教であったのが僧侶が教団の意思とは異なり地方に放たれ、定住して、「民衆もまた成仏する、浄土へ往生する」と説いたことによる。
その仏教の民衆化の力を江戸幕府が利用し、寺請制度で利用した。
仏教の檀信徒向け葬法は僧侶とする儀礼を援用し、戒名を与え仏弟子にしてあの世へ送るという禅宗の葬法を基本とした。
この江戸幕府の、神職すら寺の檀家となり、檀那寺での葬儀の強制に対し、儒学者、国学者、神職が反発し、神葬祭を志向し、近世末期(1785)に吉田家からの免許状を条件に神職とその嫡子に限り神葬祭を行うことが許可された。
それ以前は水戸藩で日本古来の葬法は儒礼に近いものがあるとして朱子の「家礼」をアレンジする形で神葬祭が始まった。
実際に神葬祭の形式が誕生するのは幕末。
それが集大成されたのが教部省『葬祭略式』(明治5年)。
この同じ年に明治政府が「自葬禁止」の布告を出し、一般の人まで自由に神葬祭ができるようになった。
しかし明治15年に内務省が官幣社、国幣社の宮司の神葬祭関与を禁止し、府県社以下の神職のみの関与を認めたので、すべての神職に神葬祭関与が認められたのは戦後のことである。
江戸時代に神葬祭運動が生じたのは、仏教葬が僧侶の得度式を模したので、「なぜ神々に仕えた神職まで出家しなければならないのか」と反発したことによる。
神社神道とは、「神々とその建物や森などを守ってきた共同体の信仰」ということで、聖書、教会を中心としたキリスト教や仏典、教団を中心とした仏教などの宗教とは異なる独自性をもっている。
神社の信仰とは自然の中で生活を繰り返してきた人たちの信仰で、自然の中で生活してきた人たちが、自然の人智を超えた美しさや畏さを知り、そこに神を実感し、自然の神気に触れて浄化されたいという人間の感情、信仰心を本質としている、とまとめることができようか。
神葬祭は「仏教以前の日本人の固有の葬法」で、「これこそが日本人本来の葬法」という理解がある。
古代においては食い別れのような食事、死者に対し馳走して別れるという儀式があったらしい。
太古から死者を葬るのには葬列が組まれたらしい、ということが『古事記』や『常陸風土記』等により推測される。
柳田國男が『先祖の話』で書いているように、日本人の死後観は西方浄土のような遠くに行くのではなく、霊は永久に国土に留まっている、と考えられるので、亡くなっても生前と同じように食事を出して仕える。
蘇生しなければ、死者の世界に完全に入るとして野辺の送りをして葬る。
御霊(みたま)は生きてわれわれの生活の周辺や山にいて、いつでも交流できる。したがって生前と同じように御霊に仕える。
「神より出でて神に入るなり」という言葉があるように、死者の御霊は「土に還る」、大自然に還る。
したがって、死者を亡き人を生前と同じように送り、また、いつでも還っていただく。御霊は、死後も子孫が繁栄し、子孫の手厚い祭りを受けられる、という日本人が安心立命できる境地が神葬祭の死生観といえよう。
こうした死生観は実は日本仏教文化に生きている。
彼岸、お盆、仏壇という習俗を見れば、死者は近くにいる、という観念を共通に保持している。
2006(平成18)年の紅白歌合戦で歌われ大ヒットした「千の風になって」は作者不詳だがアメリカ人の手になる、という説が有力である。
新井満の訳詩は
私のお墓の前で泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
で始まる。
途中の「千の風になって」が詩、歌のタイトルとなっている。
原詩は詩の冒頭の「DO NOT STAND AT MY GRAVE
AND WEEP」が通称となっている。
この歌が大流行したことは、家族や恋人など身近な人の悲しみを多くの人が抱え続けているという事実である。
日本人が春秋の彼岸、お盆、仏壇、法事を大切にしてきたし、いまもしているということは、死者を追悼し、覚えるということが、いかに私たちの心性に強いかということを示している。
仏教の、というより日本人の死生観に強いのは「無常観」であり、これは今回の東日本大震災でも見直された。(この項終わり)