話題は「お布施」「遺族とのコミュニケーション」などなど。
依頼が11字詰なのに、おっちょこちょいなものだから19字詰と思い込んで最初書いた。
出す段になって気が付いて、詰めに詰めて完成させて送ったのが掲載されたものである。
鵜飼秀徳『無葬社会―彷徨う遺体 変わらぬ仏教』(日経BP)
―始まった多死社会のもたらす問題を活写
戦後長く年間死亡者数は70~80万人規模であったが、進む高齢化で今や130万人台に突入し、2030年には160万人台にまで到達すると推計されている。多死社会はどういう問題をもたらすのかを、死と葬の変化を中心に丹念な取材をもとに活写した問題作である。
著者は先に『寺院消滅』で、都市化により過疎化した地方社会の中で進行する、寺院が担い手を失い荒廃し消滅していく様を、具体事例を取材して問題提起し、仏教教団に強烈なインパクトを与えた。
その続作とも言うべき本書は、主に多死化の現場となる大都市の死の現場と仏教寺院の抱える問題を描く。
「無葬社会」とは著者による造語である。
しかし、看取る人がない単独死(著者は「孤独死」という用語を用いるが、「孤独死」も「孤立死」も価値観が混入する危惧がある)、葬儀をすることなく火葬だけで済まされる直葬、墓地への埋蔵に立ち会うことなくゆうパックで遺骨を墓地に送る送骨等の遺骨処分…これらが増加する傾向にあるから違和感がない。
著者によれば「無葬社会」とは、死者が埋葬されず供養されない事例が増える社会のこと。
最初に書かれた「火葬10日待ちの現実」は少し走りすぎ。
昨冬は死亡者数が少なく火葬場経営者が青くなったのは有名な事実。
「待ち」が出るのは葬儀時刻帯が似たよりなため混む時刻が決まっていること、東京では斎場(葬儀会館)が少なく、火葬場付きの式場人気が高く競争になること、決して「火葬場が混んでいる」わけではない。
また、名古屋が解消したが、本来火葬場を新設または改造したいのだが地域住民の反対によって妨げられている事例だ。
将来的には問題がないわけではないが、今の問題ではない。
地方から都市への墓の引越し(改葬)がもつ問題、アマゾンへの「お坊さん便」の出品がもつ、宗教意識が低下した都市住民と財政的に逼迫した地方僧侶の利害の一致のありさまは記者であり僧籍ももつ著者の問題意識がよく現れ、重層的に描かれている。
単独世帯で誰にも看取られずに死に、数週間、場合によっては数ヵ月後になって発見される遺体の増加と腐乱のせいで住居を修復するのに巨額が投じられる「特殊清掃」(嫌な言葉だ)需要の増加が語られる。
単独世帯が4分の1を超し、だれもが「おひとりさまの死」の当事者になり得る状況がリアルに語られる。
墓の変化においては改葬の受け皿となり、大都市に進む寺院による大規模納骨堂ビジネスが描かれる。
だがこれが永代供養墓とは理念が異なるのに同列で論じられたり、散骨と自然保護型樹木葬、都市型樹木葬と言われる樹林葬等には混同も見られる。
戦後の民法改正により家制度は法的根拠を失ったが墓の慣習においては生きてきた。
それも家族の変化により崩れ出していることは著者の描くとおりである。
だが現実には改葬されることなく放置され、見放される墓がはるかに多く、地方の墓地を悩ませる。
跡継ぎ不要の永代供養墓が需要を見込んでたくさん造られたが、売れ行き不振で残っていたところが安価な遺骨処分場化している。
墓の問題は著者が描く先を走っている。
著者の関心である、仏教寺院のこれからの課題に立ち向かって僧侶への取材が生き生きとしている。
檀家制度に依拠せず、すべての人に開かれ、墓を入口に寺に新しい信徒を招くことに成功した新潟・妙光寺安穏廟の小川英爾住職、骨仏で信仰を集める大阪・一心寺、路上生活者の支援と供養を行う東京浅草・光照院の吉永岳彦副住職、永代供養個人墓を媒介に東京と地方寺院のネットワークを考える東京新宿・東長寺、難民キャンプNGOを率い、難民キャンプや被災地で絵本図書館を展開する長野県松本・瑞松寺の茅野俊幸住職。
仏教寺院の未来へ少しではあるが希望、夢を示す。
著者は
「多死時代を迎え、都会では遺体が彷徨い出している」
と言い、
「無葬社会は不可避のようにも思える。
しかし、一方で、亡き人を供養したいという根源的なこころ」が「社会に潤いと安定を与えてくれるはず」
と信念を述べ、そのためには仏教の再生が鍵となることを力説している。