老いと死、生活と墓~個のレベルから見た死と葬送(1)~

「死」と言っても「葬送」と言ってもそれぞれが多様で固有であることは言うまでもない。

死や葬送について論ずる、というのはある半面しか描けない。

そこで具体的な場面を示してみようと思う。
これ自体が、あくまでも私個人が感じるものでしかない。
基本としてここに描いたものはフィクションである。
私の周辺で生じたものが多く含まれているが、当事者の心象に投影して描いている。

過去に書いた短い断章を集めている。だから読まれたものもあるだろう。
それぞれがそれそれで読んでくださればいい。1回あたり2編くらいをときどき掲載していく。


①老いと死


「なかなかお迎えがこないんですよ」

彼は不自由な脚で杖をついて立ち止まり苦笑した。
「おいくつですか」の私の問いに
93歳になりました。周りに迷惑ばかりかけて、いやになってしまう」

老いというのは、はじめは徐々にだが、ある時急激に進む。
しかし、その後停滞する。

そこで人は自らの果てしない老いを自覚する。
と同時に自分の死を自覚する。

「自分の身の回りのこともできなくなっちゃって、もう早くお迎えがくればいいという心境ですよ」
「前は長生きしたいと思っていたけど、長生きできて、もういいやと思ったら、なかなか死なせてくれないんですよ」

身の回り、特に排泄の介助が必要となったとき、高齢者の自尊心は粉々に砕かれる。
介護するほうも大変だが、当の高齢者にとって精神的な苦痛ははかりしれないものがあるように感じる。
「人間の尊厳」というのは抽象的なものではない。
きわめて具体的で実際的なものであるように思う。

90歳、老衰で死んだ義母を看取ったとき、その死顔はやすらかだった。
身体だけでなく精神も辛かった長い苦闘からやっと解放されたやすらぎがそこにあった。

生活と墓

北陸に旅行した折り、列車は日本海沿岸に沿って走った。
海の青の鮮やかさに魅入った。

山間部に入ると、車窓から墓が見える。
墓というと墓石が林立する墓地を普通イメージしてしまうが、この墓は違う。
集落地の一角に数個の墓石があったり、山側の斜面にやはり数個の墓石があったり、中には家の庭地に墓石があるのもある。
いまでは新たに創設が認められなくなった集落墓地、個人墓地である。

死者の世界が生者の世界と隔離されているのではなく、生活空間と共存している。

珍しいことなのかと思って車窓から注意してみていると、こうした墓があちこちにある。
家族が死者に寄り添って生きているのだ。

生活空間から隔離された墓も古くからあるが、こうした生活空間と共存した墓も古くから存在する。

日本人が墓に対してもつイメージというのは昔から多様であったという、いわばあたりまえの事実に気づかされた。
墓石の形も和型の三段という点では共通していても、土台の形が地域で異なる。

雪国の墓石は土台が高くなっていることが多い。
雪が降っても墓がわかり、納骨できるようになっている。
もっとも九州の都城でも墓石の土台が高かったが。


生活と墓、これは密接に関係している。

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/