「閉眼」って、何?―「改葬」問題のコンテキスト④

「閉眼」って、何?
「改葬」問題から言えば、少し寄り道に近い話だ。

「改葬」に際して、元の墓を原状復帰するか、その費用相当分を墓地管理者に支払う。
墓石を撤去するだけではなく、使用していた墓域である墓所全体を原状=つまり使用以前の状態に復する必要がある。

また、管理料に不払いがあった場合にはそれを支払う。

以上は常識に属する。

しかし、「閉眼供養」って、何だ?

墓石業の方、寺院の方は(もっとも仏教者に限ることだが)
「墓を建てた時は開眼供養をし、墓を閉じる時は閉眼供養をするのは常識」
とおっしゃるだろう。※真宗は言い方が違うらしいが。

岩波仏教辞典

「開眼(かいげん) 新たに作られた仏像・仏画を堂宇に安置し、魂を請じ入れること。開眼の儀式には香華・灯明・護摩などをともなうので、<開眼供養>という」とある。

しかし、「閉眼」の項はない。

親鸞の有名な
某(親鸞)閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし(改邪鈔)
での「閉眼」は「目を閉じる=死亡」を意味している。

「閉眼供養」の「閉眼」の意味ではない。

仏像修理の時に「閉眼供養」をし、修理中は物とみなす、というのは工事をする者の気持ちを考えてのものであることが多いだろう。
しかも、この場合には修理が終了したら元に戻すのだ。

墓石を建立するのに「開眼供養」をするのは墓を仏像に見立てたからである。
そもそもこの「見立て」がなければ「開眼供養」は存在しない。
「見立て」は教理ではなく「慣習」である。
火葬された焼骨を「白骨」=「成仏の徴」と理解したのは、古くからの仏教の民間信仰であり、これが火葬を推進させる契機とはなった。
特に「喉ぼとけ」(実際には軟骨であるため火葬時に溶解しなくなるので、代わりに第二頸椎を見なすのだが)を「本骨」と言い、「本山納骨」ではこれを納骨する。
だから「白骨」も「成仏の徴」として大切にされ、それを納める墳墓もいわば堂宇と見做したのだろう。

以上は、あくまで見做した話である。
でも民間習俗・民間信仰であれ、それを信じる人がいる以上、大切にされるべきである。
刑法は遺骨、それを納める棺、墳墓を尊重すべし、と定めているのは社会的習俗としての宗教感情を尊重しているからである。

改葬に際し、「閉眼供養」が必要とするのは、後で墓石を撤去する業者等の心理を配慮したものと考えれば少し理屈がつく。

寺院が要求するとすれば、それは仏教者としての要求ではなく、墓地管理者として墓石業者の仕事へ配慮してのことだとすればわかる。
民間信仰を尊重する気持ちであればいいが、とかく逸脱する。

とするならば、墓所撤去作業をする墓石業者が「閉眼供養しなくともかまいません」と言えば閉眼供養は不要となるのではないか?

もちろん墓を建てる人が開眼供養を必要とし、改葬する際に閉眼供養をしたい、というのであるならば問題ない。やればいいのだ。
他人がとやかく言うことではない。

しかし、当事者がそう思っていない場合にはどうなのだ?
墓の開眼も閉眼も仏教の教えそのものとは異なり、仏像相当物と見做す民間習俗だとするならば、それを強制することは寺にはないのではないか?
民間信仰を尊重することを否定しているのではない。
とかくそれ以外の意図をもちかねないのが問題なのだ。

これは仏教寺院の場合、改葬する人にときどき(あくまで一部と信じたいが)閉眼供養を条件かのように要求し、これに相当額を要求する例があるからだ。

出る人が「これまでお世話になりました」と感謝の気持ちで差し出すのはいい。
これは美しい話である。
たくさんの人が進んでお礼を包むのは望ましいことだ。
だが強制すべきではない。

また「離檀料」を要求する事例がある、と聞く。

墓を移すことは即檀家(戦後は「家」がないので「檀信徒」「檀徒」と言うべきだろう)を辞めることを意味しないだろう。

本来なら移転先を訪ね、檀信徒をときどき訪れる、ということがあっていい。
だから改葬する人が申し出ない前に、寺から「離檀」を言い出す性質のものではない。

「離檀料」があるというだけではない。
「入檀料」があるから驚く。

首都圏の民営墓地ではなく、寺院境内墓地に見られるのだが、寺院境内墓地を入手するのに使用料以外に入檀料が要求される。
事務手数料的なもの、2万円程度のものはあっていいが、10万円以上となると性格が異なる。

寺院境内墓地がブランド化しているのだ。
ブランド料であり、それこそ事業型墓地の証左ではないか!

寺の檀信徒になるのにお金を必要とする、というのは壁を設けているようなものだ。
「金持ちだけが檀信徒になれます」
と広言しているようなものだ。

「檀信徒になる、というのはお寺の活動を支えることですよ」
と伝えるのはいい。護持会負担はあっていい。
また檀信徒にさせていただいたお礼をするのは美しい話である。

改葬だけではなく寺墓地購入にあたっても、「美しくない話」が多すぎないか?

改葬元の墓地管理者が「埋蔵(納骨堂の時は収蔵、土葬された場合は埋葬)証明を行うのは、単純に「事実証明」であり、対価をともなうものではない。

こうした問題と寺の財政問題は区別されるべきであろう。

確かに寺側からは改葬により檀信徒が減少するのは財政的に痛手である。
だから寺財政について話し、寺への寄進の継続を依頼するのはあっていい。
しかし「要求」すべきものではない。

寺の問題はまた別に論じる機会もあろう。

「改葬」にあたって、こうした「美しくない話」はいい加減やめないと、不信感のほうが増すのではないだろうか。

「開眼供養」「閉眼供養」を常識化してきた墓石業者にも問題はあるのではないか。

最初に断わったように「派生」の問題である。

こう考えると、いちばん腹が立つのは「入檀料」である。
「離檀料」はまだ地方寺院の事情から同情すべきところがある。
しかし、大寺院の「入檀料」は弁解の余地がないからだ。

妄言多謝

僧侶、墓石業者の方々から意見をいただけるとうれしい。
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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/