近親者の悲嘆への配慮
死者の近親者が死別により悲嘆を抱えるようになることは自然なことです。
それ自体病気ではありません。
人間が深い関係にある人間を喪失した時に起こる、極めて人間的な感情です。
それを埋めようとして行う近親者の作業を喪の作業(グリーフワーク)と言います。
死別の悲嘆(グリーフ)は泣き嘆くこともあれば、怒りになったり、他人への攻撃、情緒不安定、抑うつ等とさまざまな現れ方をします。
それぞれの関係によるものですから、実にさまざまです。
解放感、安堵もあるし、それだから薄情というわけではありません。
人の死は固有ですから、グリーフもまた固有でさまざまです。
こうであらねばならない、というものはありません。
注意すべきことは、睡眠障害、長期にわたる食欲不振。
周囲の人間が悲嘆や喪失に陥った人を支援すること(grief and loss support,
grief care)は特別なことではありません。
グリーフに陥った人の喪の作業(作業というより、辿る心理的・精神的あるいはそれが現れる身体症状の過程)がそれぞれなりに行えるよう配慮する、準備をすることです。
せめて周囲がそれを邪魔をしないことです。
誤解されるべきでないのは、グリーフケアが最も大切なことではなく、近親者らのグリーフワークが重要なのです。
主人公はあくまで当事者なのです。
グリーフケアは誰かの仕事であったり、それによって死者の近親者の悲嘆を劇的に改善するものではない、ということです。
好意的でしょうが、「癒してあげたい」という言葉をしばしば聞きます。
「力づけたい」という言葉も聞きます。
同じ目線に立たず、無意識に上から目線になりがちで、関係によっては力づけられることもありますが、「無理解」と反発を招き、更なる落ち込みを促進しかねません。「癒す」等の言葉は誤解をうみかねない表現です。
グリーフについては、「同情」と並び、しばしば用いるのを避けたほうがいい言葉の代表的なものです。
多くの場合、近親者の悲嘆の助けになるのはきょうだい等の家族や親しい友人です。
身近にいる人が最も有効な助け手になります。
もっとも身近な者に「裏切られた」と感じたり、不信になった時の傷は出口を失い内向化するリスクもあります。
そうした場合、まったく他人の方がいい場合もあります。
周囲からサポートを得られない人もいます。
そうした人に対して、本人が必要とするならば、その本人に必要なサポートを提供できる用意のある人が手の届くところにいる、と示すことは有効なことです。
近親者の喪の障害になるのは、しばしば葬儀慣習です。
親は子の火葬には立ち合ってはいけない、
納骨は四十九日までに終えなければならない等、
およそ根拠のない、当事者の気持ちに委ねるべきことが慣習にはあります。
そうした喪の作業の障害になる慣習を正していくだけでも近親者には益になります。
今、グリーフケアについて語られることが多くなりました。
これまで死別の悲嘆にあまりに無頓着な社会であった、ということもグリーフへの再認識を迫っているのでしょう。
しかし、グリーフケアは重要であるが、ささやかなものだという認識もまた必要ではないでしょうか。
※
私がどうしても好きになれない言葉に「傾聴」がある。
もともとカウンセリングの技法であることは理解している。
相手をまるごと理解しようとすることで押しつけではいけない、ということなのだろう。
それによって相手に理解してもらった、受け入れられたと思わせることなのだろう。
しかし、私には、しばしば「押しつけ」に感じるのだ。
「傾聴」活動した人も実際にはさまざまな障害にぶちあたり、それ以前の人間関係を築くのに苦労されたようだ。
「傾聴」は、どうも言葉が大げさで、自分を卑下することを強調しているようで、結果として押しつけになるようで好きにならない。
私はひねくれものだから、「土足で心中に乱入」「詐欺手法」とさえ思うのだ。
「自分はいい人」を押し付け感がある。
カウンセリングの技法として訓練することはいいが(それでも言葉は変えられないか!)、外に向かって「傾聴活動」と広言することはないだろう、と思うのだ。
人間と人間の係わりであるから、受け入れられ、確かにいい活動をしている人もいる。
「たくさんいる」と言ってもいいだろう。
それを否定するものではない。
しかし、内面に乱入するのではないか、と警戒して拒んだ人がたくさんいたことも事実だ。
「ボランティア」だけではいけなく、なぜ「傾聴ボランティア」でなくてはいけないのか?
私の感覚はつまらない誤解であればいいのだが、どうも不信感は拭いされていない。
私が「いい人」嫌い、「ひねくれもの」だからか。
スピリチュアルケアにも似た感覚がある。
スピリチュアリティは大切だが、ことさらスピリチュアリティが強調されると、何なのかな?と疑問、違和感がある。
もっと自然に全的に見られるといいのだが。