死者を弔う
95年の阪神・淡路大震災でも、今回の東日本大震災でも遺族たちがとった原初的な行動は、死者を弔うことであったように思います。
祭壇がどうの、あるいは最近の家族葬がどうの、ではなく、死者を弔うことは遺族としてまずすべきことであった、ということです。
阪神・淡路大震災で焼け野原となった長田地区に足を踏み入れた時、焼け跡のそこかしこに、板切れに牛乳瓶に生けられた一輪の花、そしてペットボトルに入れられた水が載せられてありました。
おそらくその場所でいのちをなくした人に供えられたのでしょう。
その小さな小さな祭壇が輝いて見えたことを思い出します。
また負傷した人が大阪等の設備の整った病院に移るように勧める医師に、被災死した家族の弔いがまだ済んでいない、と強固に断わった姿に、家族を弔う想いの強さを見ました。
東日本大震災でも、そうした原点がそこかしこに見られました。
瓦礫の中から見つかった犠牲になった家族の写真を撫でるようにして見ていた遺族。
町が根こそぎ流出した様を高台から見ながら祈っていた子どもや家族。
無名の僧侶たちの死者を供養する読経の後ろで手を合わせていた人たち。
あるいは遠隔地の火葬場に深夜出かけた先で僧侶が待っていてくれて、おずおずと申し出た読経に感激したこと。
これらは遺族の死者を弔う想いに重なったからではないでしょうか。
死者を弔うことは死者を胸に刻みつける行為のように思います。
死者を忘れるためにではなく、より強く死者を自分の心に刻む行為だと思うのです。
東日本大震災で、宗教者が「区切りのためのお葬式」と言っていたのには大きな違和感を覚えました。
確かにグリーフワークの出発点は死の事実を否定するのではなく確認するという、遺族にとっては辛い作業にあります。
しかし、それはそれぞれの遺族がそれぞれのペースで行えばいいことです。
葬式や法事で遺族にとって必要なことは手順や知識ではないと思います。
手順は葬儀の担当者が寄り添って不安のないようにすればいいことです。
大切なのは遺族が通夜や葬儀の場でしっかり死者を弔う環境を用意することであろうと思います。
葬儀社の担当者は、遺族が来賓や会葬者に失礼がないように振る舞うことではなく、遺族が弔いに専心し、自分たちが弔ったと思える環境を用意することではないでしょうか。
現在の葬儀不信、簡素化は伝統的慣習を知らない若い世代のものと推定されることが多かったのですが、11年の経産省の調査によれば特に70代以上の高齢者に顕著だということが判明しました。
高齢者は子どもたちに迷惑をかけたくない、という意識が強いものがあります。
また、自分たちが親を送った時は社会儀礼色が強い葬式であったので、あのような遺族が自分が弔うのではなく、お客に気を遣うだけの葬式を体験させたくない、という想いがあるのでしょう。
僧侶も葬儀社も葬儀の主役ではなく、サポート役だということを知ることです。
最近は遺族の考えを尊重する葬儀社の姿勢が出てきていますが、遺族の想いを知ろうとしないで葬儀を勤める宗教者がまだいることに驚きます。
死者のこと、死者に対する遺族の想いを知らないで葬儀をしようというのはあまりに葬儀を冒涜した行為であると思います。
もっとも遺族の中には、「葬儀の格好をつけるために僧侶を呼ぶのであって、何宗の僧侶でも料金が安ければいい」と思う輩が少なくありません。
これが派遣僧侶プロダクションの暗躍の温床になっていることは事実です。
でも葬儀社にも、僧侶を呼ぶことの意味を語り、派遣僧侶プロダクションはせめて利用しない、という見識が必要であると思います。
もっとも事前に遺族がネットから僧侶派遣プロダクションに頼んでしまっている、というケースもあります。
僧侶の中には仮に布施が安かろうと、遺族に弔う気持ちがあれば行く、という見識をもった僧侶はいるはずです。
その場合に布施の中から斡旋料を抜くのではなく、斡旋をお客が依頼するならば、適切な範囲の紹介料をお客に明示し、お客からもらうというのが筋でしょう。
現在の僧侶派遣ビジネスでは、ほぼ4割、中には5割という斡旋手数料が見られます。
しかし斡旋手数料が明示されている例はほとんどありません。
本来死者を弔うべき葬儀が、弔うこととはまったく無縁なビジネスに汚されている状況は脱する必要があります。