死者との関係づけ―戒名、布施問題の多角的アプローチ②

戒名、布施問題の多角的アプローチ②

死者との関係づけ

仏教葬儀でなぜ「授戒」が重視されたか?(下)

日本の仏教葬儀の内部に少し立ち入って見てみることにしよう。

※誤解してほしくないのは、ここで教理を語っているのではないこと。
儀礼が民衆の心性とどう関係していたのか、その全部ではなく、一端を探る試みだ、ということである。
一つの見方を提示するもので、あるべき方向を提示しているわけではない。
しかし、これはこれで私の模索の一つの結果を提示している。


「導師」に期待されているもの

死後の世界に橋渡しする存在が導師である。

導師とは民衆に法施をなし、仏法に導く僧侶という意味ではない。
葬儀においては、まさに死後の世界に導く者であり、この役目においては、超自然的なものの化身、代行者であると理解されているように思う。

ある僧侶が地域共同体の葬儀の時代にあって、僧侶は地域共同体の一員として葬儀の儀礼執行を分業した、と語っていた。

だが、分業以上のものであると思う。
その僧侶の人間性を別として、葬儀の導師を務めることによって、聖化された存在と見なされたのであると思う。

創価学会が、僧侶抜きの葬儀を提案したとき、これに対する強いアレルギーが出たのは、僧侶が収益源を失うことへの僧侶からの反発もあったろうが、導師を欠くことにより、あの世への移行が不確実なものになることに対する民衆側の不安があったのではないだろうか。
創価学会の友人葬でも儀典の係が「導師」を務めている。
「導師」の期待されている役割を暗黙のうちに受け入れたのだろう。

枕経

仏教葬儀の儀礼で最初にくるのは枕経である。

枕経とは、新しい世界に移行させるための死者に対する修練であり、秘伝を伝えることであると理解されたのではないか。

歴史的にも中世の浄土教では死にゆく者への臨終経としてあったものである。
枕経は、まさに死者に対するものとして存在した。

授戒

仏教葬儀の中心をなす儀礼は、浄土真宗を除き、授戒である。

これは意味あることであると思う。
授戒は死後の世界に入りしむるための秘儀として位置づけられたのだと思う。

ちょうど古代の男子の成人儀礼で割礼を施すように、授戒儀礼では、死者を剃髪し、過去を殺し、新しい世界の世界観たる戒を授ける。

授戒は、死者を新しい死後の世界に移行させる決定的瞬間なのである。
それ故に授戒が中心をなしたのではないか。

日本の仏教葬儀が俗人が出家して僧侶となるための加入礼を模したことは偶然ではない。死後の世界へはイニシエーションが必要なために援用されたのだと思う。
授戒し、死者が戒名を授かることは、死者が霊的存在として再生したことを示しているのである。

戒名の有無は、死者が死後の世界に無事位置づいたことを示す証明であり、遺族にとっては死者と新しい関係づけをすることが可能となったことを証明するものなのである。
戒名を得ることの意味が、民衆にとってこのように理解されたからこそ、民衆は死者のために戒名を得ることへ殊更に拘ったのだ、と考えると理解しやすいように思う。

そして導師による引導とは、まさに、死後の世界に死者が入ったことの宣言としてあった。

曹洞宗では一挙に仏世界に導くとして「喝(かーっ)」などと大声するが、その場にいる者たちには、深い印象と安心を与えるものである。

藤井正雄が、日本における葬儀式の展開は、真宗と日蓮宗を除き
「没後作僧すなわち死者を仏弟子にする授戒式と、その新仏弟子を浄土に引導するという二重構造になっている」(『祖先祭祀の儀礼構造と民俗』)
と述べているが、このことは日本の仏教葬儀がイニシエーションをその本質としていることを示しているように思う。

死後の修行という考え

しかし、引導の後にも、日蓮宗などでは、死者は死後しばらくの間は修行するという考えがある。
これは何故だろうか。

イニシエーションにとって、新しい世界に入るには、本来から言えば、修行が必要であるという観念がある。
だが、死者にはその充分な時間がなかった。
そのため死者には死後も修行が課せられたと考えるのが合理的であるように思う。
これが四十九日である。

この死者の修行は死者が単独で行うのではない。
遺族も死者と共に修行に参加することになる。
これが四十九日間を遺族が籠もることの意味であり、喪に服することの意味である。

服喪というグリーフワーク

遺族はかつて、「素服」という死者の衣と等しい服で身を包んだ。
まさに死者と共に修行に参加することを義務づけられたのである。

この服喪は、死は死者に単独で生じるものではなく、死者と遺族の間に起こる共同的なものであることを示しているように思われる。

ファン・ヘネップも
「服喪中は遺族と死者とは共に一つの特別な集団を構成しており、生者の世界と死者の世界との中間におかれている」
と語る。

と同時に、服喪は遺族の悲嘆を位置づけるものであった。
服喪をシステム化することにより、遺族が家族の死によって生じる精神的な衝撃、悲嘆が生じることを自然なこととして認容したのであると思う。

遺族に対して、システムとして服喪を課すことは外からの強制ではあるが、それを遺族自身が主体的になすことによって遺族自身のグリーフワークとなっていく。
遺族は服喪という死者との共同作業を行うことを自らに課すことによって、死者のために供養し、それを死者に振り向けて回向するという名分の下に、グリーフワークをなしたのである。

服喪の習慣が仏教世界だけでなく、各地に見られるのは、死の共同性が文化を超えて人間にとって本質的なものであることを示している。
死別した者の悲嘆が人間にとって極めて自然なことであることが受け入れられていたことを示しているように思われる。

修行を終えた死者は、最終的な秘儀である中陰儀礼(四十九日法要)を経ることによって、新しい世界である死後の世界に一人前として認められることになる。
これは仏教的には「成仏した」「浄土に往生した」などと表現される。

忌み

ここで「忌み」も新しい意味をもつことになる。

四十九日は「忌中」と名づけられ、「忌みの中にある」ことを示すものである。

「忌み」とは、一般に理解されているような、死穢を避けるということだけではない。
古い世界を殺すことを意味したのではないか。
例えば、今でも関西地方を中心に残る民俗である出棺時の死者の使用した茶碗を割る行為である(真宗はこれを嫌うが、一面的理解からきていているように思う。もっとも茶碗を割る風習自体がなくなりつつある)。

これは古い世界である生前の残存物を抹殺し、死者を古い世界に戻りようのない者とすることによって、新しい世界である死後の世界で生かすための象徴行為であったのではないだろうか。

確かに死に対する恐怖心や嫌悪感は現実にあった。
また、愛する存在としてあった死者を遺された生者が断念するという意味もあったであろう。こうした心性を合理化するものとしてもあったろう。

ファン・ヘネップによるなら分離儀礼であるが、忌みは、死後の世界での再生を願って行う、死者の古い世界の抹殺行為という積極的な意味を付与されたのだと思う。

服喪することを「忌み籠もる」と言う。

これは遺族が死穢に染まっているから遠慮して籠もるという消極的な行為だけではない。

死者が新しく死後の世界に再生するための(同時に遺族がグリーフワークをなすことにより悲嘆を表出し、死者亡き後の世界に生きるための)積極的な行為として理解されたのだろう。

カミ、ショウリョウ、ホトケ、ソレイ

死者が、こうしたイニシエーションを経て、つまり死と再生を経て、死後の世界に仲間入りし、加入した存在の名称が「カミ(神)」「ショウリョウ(精霊)」「ホトケ(仏)」である。
また、家族にとっては「祖先」であり、「祖霊」である。

イニシエーションにより死と再生を経たゆえに、祖先は力をもつものと見なされ、現世に生きる者である子孫を超越的に見守り、助ける存在として理解されたのではないだろうか。

まさにファン・ヘネップの言うところの「統合」の完成である。

イニシエーションが完成することにより、死者は死後の世界に位置づき、死者のパワーが生者に統合することによって、生者もまた回復し、死別の精神的混迷から抜け出し、新しい死後のステージに移ることが可能となるのである。

イニシエーションは死を内包する

エリアーデによるならば、
イニシエーションの「目的は、加入させる人間の宗教的・社会的地位を決定的に変更すること」であり、
「哲学的に言うなら、イニシエーションは実存条件の根本的変革」に等しい。
「ほとんどふるえ上がるほどの恐ろしい厳粛さ」を示す儀礼である。

多くの加入礼が、死を内包するという事実は、人間存在を揺るがし、人間関係に裂け目をもたらす二人称の死という事態こそがイニシエーションを必要としたことを根拠づけるのではないだろうか。

イニシエーションとして葬儀を行うのは、死が、単に人が存在を失うというマイナスの出来事としてのみ理解されたのではないからだ。
あるいは、そう理解したくないという想いがイニシエーションを生んだのであろう。

しばしば、死ぬことは、本源である世界に還ること、往還することであると理解された。
これは自然の循環と豊穣を積極的に理解したいという心性から出たものではないだろうか。

仏教の教理を別として、民衆が仏教葬儀を以上のようにイニシエーションとして理解したことは、ほぼ間違いのないことではないだろうか。
そして各宗派の葬儀に対する理解も、死に際してイニシエーションが必要であるという民衆の感覚と無縁ではなかったと思われる。
これが枕経、授戒、引導などの葬儀における位置づけとなって表現されたのではないだろうか。

死と再生

改めて確認しておきたいことは、死が「危機」であると理解されたから、民衆は家族の死に際してイニシエーションを必要としたのである。

死者の再生であり、同時に遺族は死者と共に小さな死を体験することにより、危機に陥った自らの再生をなすためのものであった。

死の危機に直面したとき、近代人といえども古代的心性、つまりは原初的な心性が奥底から湧き上がってくるのでないか。
これは人間の本源からくるエネルギーなのかもしれない。
人間の歴史は、こうして死と再生を繰り返してきたのだろう。

近代人は、世俗化され、聖なる世界から引きずり出された存在である。

それゆえに、儀礼という宗教的世界の中で再生することを簡単には実感できなくなっている。
これは不幸である。

だが、死という危機に直面して、水面下で、こうした葬儀というイニシエーションを必要とする想いがフツフツとしているのではないだろうか。
そうとでも理解しないと、崩れかけているとはいえ、民衆にとって葬儀というものがもつ意味が正確に理解できないような気がするのだ。

現在、戒名問題や仏教葬儀などへの不信が出ている。
これにはさまざまな原因や理由がある。
この背景については、今繰り返すことはしない。

世俗化や近代化を余儀なくされ、これからは、確かに葬儀は多様化してきたし、今後はいっそう多様化が進むだろう。

今や葬儀をどう行うか、についてのコンセンサスが薄れてきただけでなく、なぜ行うのかについてもコンセンサスをなくしているように思う。

だが、家族の死に直面した人の想いが、根本的なところで変わってしまっているとは考えにくい。
死は個別化されつつあるとはいえ、依然として危機であり、危機をもたらすという基本的な部分を変えていないからだ。

人間の死と再生の物語を過去のこととしてだけ共有し、現在のこととしては共有できなくなったわれわれ。
物語に郷愁を覚えつつも、その中に入っていけなくなったわれわれ。
多様化とはそれぞれが、それぞれの仕方で共有されることのない物語を編むしかないところに追いやられた事実を語っているのかもしれない

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/