身元不明者の慰霊祭・東日本大震災アーカイブ④

身元不明者の慰霊祭
一昨日の7日、仙台の葬儀社・清月記の西村恒吉さんからメールをもらった。

今日(注・201737日)石巻仏教会による東日本大震災身元不明遺体慰霊祭が行われました。今年からは火葬場近くに新設された納骨堂前でのご供養となりました。僧侶20数名と、市職員5名の参列でした。

 

私たちは震災の翌年から、いつものメンバーでこの慰霊祭の準備をお手伝いしており、年々、減少する数は少なくなっていたのですが、昨年は34名のご遺骨で、今年は33名だとの事です。

1年間で1人しか身元が判明しなかったことになります。

これ以降、ご遺骨の身元が判明する可能性は低いのかもしれません。

 

安置されたご遺骨の中には「東火」と書かれたものも多く、これは当時、一旦東京都の博善社様で火葬を受け入れて頂いた方々だったと思い返しました。東京へお柩を送り出す手伝いもしましたが、今日までずっと身元不明という扱いになってしまっていることに胸が痛みました。

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017030700989&g=eqa

2011年当時の私が書いたものには次のようにある。
東日本大震災の津波被災者について最初仮埋葬が行われ、その後掘り起し火葬が行われた。その過酷な作業が現地の葬儀社が担ったということは記憶され続けていい。

 

当時の報道を見ると、
市の火葬場は通常1日9体の火葬を
20体まで拡大したが追いつかないので仮埋葬(土葬。当時は「土葬」と表現されていた)用の墓地を市内3カ所に整備すると報じられている。

3月22日に第1回の仮埋葬を行ったのは東松島市。


仮埋葬は自衛隊が行った。
しかし、自衛隊を
他の任務に振り替えるというので3月末日までとし、民間委託の方針になった。

石巻市の仮埋葬を請け負ったのは清月記。

清月記は仙台が本社であるが、石巻市に2カ所の会館を保有して営業展開していた。
最初は宮葬協組に依頼があったが、石巻の組合員と相談したが困難と回答。
清月記が単独で請け負うことになった。
以下は西村恒吉(仙台市。清月記)の報告による。

清月記が仮埋葬に着手したのは4月4日。
以降4月
24日まで276体行った。


当初は1000体の予定だったが、4月から東京都で火葬を引き受け、東京への搬出作業が開始されており、火葬事情の好転から中止となった。
その後宮城県内の火葬事情も好転。

石巻市は清月記に仮埋葬した柩の掘り返しての火葬を要請。
清月記は5月7日から8月17日まで掘り起こし火葬を行った。


掘り起こしは8月
15日に終了。
計672体。
8月
17日に最後の火葬が石巻斎場で遺族立ち会いのもと行われた。
合計665体であった。


石巻市から依頼を受けての仮埋葬とその後の掘り起こし火葬を担った西村によれば、掘り起こしの最初は,4月
15日。

遺族が親戚に頼んで重機を手配し、掘り起こすので、仙台まで搬送し、安置してほしいという依頼に立ち会ったことだ。

その必死な様子が、口や鼻からあふれ出る血液や体液を拭い、可能なかぎり清めてから改めて納棺する、という過酷な作業を、遺体の尊厳を守りながら行う仕事を促した。

 

今回の震災に直面し、最初は寒い雪降る中、最後は夏の暑い中を海中から破断され一部白骨化した状態で収容された遺体の納棺、安置、搬送、火葬という仕事を、多くの葬祭従事者たちが逃げず、礼をもって行ったことは、ここ石巻においてもまったく同様であった。

 

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/