女川町の場合・東日本大震災アーカイブ(5)

本日は東日本大震災発生から6年目。

■巨大地震発生と大津波の襲来


国土地理院がその後発表したところによれば、東日本大震災は、

 

・国内観測史上最大のモーメントマグニチュード9・0。

・断層の大きさは長さ450㎞、幅200㎞。

・最大すべり量約30m。

・破壊継続時間約170秒(3分弱)

・牡鹿半島にある観測地点では上下変動は約1・2m沈下、水平変動は太平洋沖に約5・3m移動。


であった。

地震発生当時、女川町役場では、町議会の最中であった。
地鳴りがするような巨大地震であった。
その巨大地震に驚愕して間もなくの2030分後に大津波が女川に襲来した。

役場では、大津波が4階まで達した。
議員も職員もてんでに避難梯子で屋上に待避した。

引き潮では町中がまるで湾内であるかのように、水が自在に、土煙を上げて、建物や車を巻き込み回った。

翌日の空中から町を映した情景には、電車の車両がバラバラになって住宅や道路の上に寝そべっている様子が写されている。

これが現実に3月11日に女川町で起こった様である。

 

■まるで戦場


聖花園は女川町の葬儀社。経営者は鈴木通永さん(51)。

大津波は鈴木さんの周囲にも被災者を生んだ。
従業員1名、ほかの従業員の家族にも行方不明者が出た。
死別した妻の実家でも犠牲者が出た。

12日は夜明けとともに従業員や家族の安否確認で瓦礫の山を登っては越え、雪の山道を登り、寸断され、道なき道を歩いた。

瓦礫の間にはそこかしこに遺体が埋もれていた。
だがどうすることもできない。

鈴木さんは夕方、従業員に「今はそれぞれの生き残った家族を守ってやってくれ」と話した。

 

まるで戦場だった。
水も食料も通信手段もない。
町は孤立した。
災害本部となるべき
女川町役場も使用できなくなった。


震災の翌々日、仮の役場が開所したその朝、鈴木さんは仮役場を訪ね、町長や役場職員と協議。
話は多数の遺体のことになった。
1社で対応できる数ではない。
また、鈴木さんのところで今動けるのは鈴木さん1人だけ。


鈴木さんは役場職員に「ここに常駐していいか」と訊いた。
町として異存はなかった。
「ぜひ、いてくれ」という回答。
鈴木さんはそれ以降、町の職員と一体となって行動することになった。


道路もなかった。
地元業者のもとに残った重機で主要な道路は何とか車1台は通れるようにした。
といっても女川と石巻間は冠水と地盤沈下で道路は寸断されていた。

 

遺体収容~安置

 

3日目、ようやくある程度道路が通れるようになったところで、鈴木さんは町職員約10人、消防団とで遺体収容を開始。

安置所は陸上競技場内の建物。
自衛隊が入るまでとりあえずできることから協力して行った。
安置所には遺体の発見地、特徴を書いた紙を張り出した。


町の外部とは連絡が取れない。
情報もない。
遺体は続々と運びこまれる。

衛生面が心配だった。
鈴木さんは何としてでも気温が上がる季節以前に火葬し、遺骨にして家族のもとに帰してあげたい、と焦る思いであった。

町民は着の身着のまま、お金はポケットにある財布のみ。
食料もない。
冷え込み、寒さの中眠れず、疲労困憊状態となった。


鈴木さんは2代にわたり葬祭業をこの町でしてきた。
町の人たちには贔屓にしてもらった。
「町民からお金なんかもらえるか!」と思った。
終わったら廃業してもいい、最後のおつとめになってもいい。
残ったトラックと自分ひとり。ガソリンがいつまでもつかという不安。
でも自分のできることを町の仲間と一緒にやろう、と思った。


拾った戸板に遺体を乗せ、トラックで戦場の町を陸上競技場観覧席の下に設けられた安置所まで運んだ。

生まれ育った町、あまりに多くの友人を喪った。
トラックを運転しながら、鈴木さんはひとり大声で泣いた。


5日目、遺族による身元確認、警察による検案活動が始まった。

安置所から電気自動車で2体ずつ倉庫に運び、検案後、隣りのテントを張った場所に安置、警察が納体袋に入れ納棺した。

棺が不足して納体袋のまま安置された遺体も多い。
警察は遺体の特徴を書いた紙を貼り出した。
人口1万人の町なので顔見知りも多く、それが身元確認を早めた。

 

仮埋葬~火葬

 

女川町の火葬場は破壊を免れた。
しかし燃料がなく、火葬場に通じる道路も瓦礫の山。
燃料の入る見込みもなく、復旧の見通しは立たない。

遺体を何日安置しておけばいいのか見当もつかない。
残酷な話ではあるが、遺体は腐敗を免れない。
公衆衛生上の危惧は大きい。

町では話し合い、「仮埋葬」が選択された。

仮埋葬の用地取得、搬入方法を検討。

この頃には県の手配で木棺は入手できた。

県警の役割、町の人間による運び出し、墓地は地元の建設業者が造成…小さなコミュニティなので何でも皆で話し合い、町役場の課長の判断ですぐ実行に移した。


女川町では、他の「2年間程度の仮埋葬で土葬地域を参考にし、深く掘り埋葬」とは異なる方法が選択された。


「仮埋葬は、火葬場が復旧するまでの、あくまでも一時的な処置」
と考えていたので、墓地は穴を深く掘って柩を埋葬するのではなく、柩の上から土を盛る形にした。


火葬場が復旧したのは5月。

建設業者が掘り出し、土を払って棺覆いを掛け、鈴木らがトラックで運び、1日8体火葬した。


仮埋葬時に、家族は一緒に、親戚を近くに、と気遣った。
家族・親戚の火葬はできるだけ同じ日に行い、遺骨にして遺族に引き渡した。

約2カ月で柩の掘り起こしと火葬を終えた。計約400体。

(雑誌SOGI通巻149号。2015年)

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/