平和の礎―戦争を記憶する沖縄、忘却する本土

623日は沖縄の「慰霊の日」であった。

糸満市の平和祈念公園で沖縄戦戦没者の追悼式が行われた。


沖縄タイムズは追悼式の模様を次のように報じた。


翁長知事、相次ぐ事件・事故に憤り 沖縄全戦没者追悼式典

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/105028

沖縄戦から72年「戦争はもう嫌だ」 慰霊の日、島を包む平和の祈り

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/105014


朝日新聞では「慰霊の日」にちなみ鉄血勤王隊の生存者である古堅実吉さん(87)の話を紹介している。


命の限り 沖縄戦語る

http://www.asahi.com/articles/DA3S13002339.html

 

記事に出ていた沖縄師範健児之塔も平和の礎(いしじ)も行った。
訪れたのは普通の日であったが、戦没者の家族が平和の礎を訪れ、おそらく家族とおぼしき人の名を刻んだ文字を撫で、水をかけ弔っていた姿が強烈な印象としてある。

沖縄戦は太平洋戦争の末期、1945(昭和20)年41日に米国を中心とする連合国軍が沖縄本島に上陸(その前326日慶良間諸島上陸に始まる)、日本軍と激しい戦闘が行われ、多くの民間人を含む20万人を超える犠牲者が出た。


6
23日は牛島司令官が摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決した日(22日説もある)で組織的な戦闘が終結したとされる日である。


但しその後も散発的な戦闘は続き、沖縄市では、

沖縄戦の降伏調印式は、沖縄市の前身である旧越来村森根(現、嘉手納飛行場)で行われました。米第10軍の司令部が置かれていた旧越来村森根に、宮古島の第28師団長・納見中将、奄美大島から高田少将、加藤少将らが呼ばれ、正式に降伏調印式が執行されました。1945年(昭和20年)97日のことであります。

(沖縄市「沖縄戦の歴史」)

http://www.city.okinawa.okinawa.jp/heiwanohi/2524

 

として沖縄戦公式終結の97日を「沖縄市民平和の日」に制定している。

太平洋戦争は中国、台湾、インド以東の東南アジアの、いわゆる「外地」が中心であった。

しかし、戦況悪化により本土にも戦争はあった。

最初は1942418日東京、名古屋等へのドーリットル空襲であった.

無差別の大規模なものは沖縄戦に先行する半月前の1945310日のB29による東京大空襲(B293百機飛来し、東京下町を焦土化し約10万人が死亡)を始めとする大阪、神戸、名古屋等の各地で空襲があった。
各地の例の一つに私の出身地仙台での空襲がある。敗戦直前の710日にB29100機以上来襲、10003000人が死亡、約6万人が被災。

1945
86日には広島に、89日には長崎に原爆が投下された。
広島では投下直後を含め約12万人、長崎では7万人以上の犠牲者が出た。

ただ国内の地上戦の戦場は沖縄であった。

 


今年の沖縄慰霊の日が72年目。私の世代と時を同じくしている。

 

私の記憶としては当然自らの戦争体験はない。但し戦後の疲弊は経験していてそれが12歳頃まで明確にあった。
戦争の記憶が人々によって語られ、教育現場でも強くあった。

経済成長が始まる1955(昭和30)年頃から急速に戦争の記憶が遠のいたように記憶している。

 

急速に遠のいた背後には意識的なものがあったように思う。

 

「死」の記憶を遠ざけ、「生」を謳歌する。日本人は高度成長の裏で為政者のみならず大衆意識としても死穢意識を強くした。それが完成するのが1975(昭和49)年前後の「総中流」であったように思う。

もとより個的な戦争の影は残った。
私の叔父のフィリピンでの戦死にしても、それは母にとって認知症になっても深い傷としてあった。
だが共有はされなかった。

 

沖縄は米軍が占領し、米軍施政下に置かれた。
いわゆる本土復帰は1972(昭和47)年のこと。


沖縄は、戦時中は日本軍の、戦後は米軍の支配下にあり、戦後の日本の経済成長とは無縁にあった。
これが沖縄の貧困に影響している。

沖縄では戦争、戦後の記憶が共有されただけではなく、いまだに多くの米軍基地を抱える。

 

沖縄の鉄血勤王隊生存者である古堅さんは87歳。
おそらく1930(昭和5)年生まれだろう。
太平洋戦争開始の1941(昭和16)年には11歳、沖縄戦終結の1945(昭和20)年には15歳。
おそらく動員された最後の世代であったろう。

最後の玉砕戦の先兵として駆り出された世代が1913(大正2)年~1925(大正14)年の大正生まれ世代。

現存者は少ない。

 

指導者層の中心はそれ以前の明治中期以降生まれ世代である。現存者はいないに等しい。

ちなみに開戦時の首相であった東條英機は1884(明治17)年生まれである。

 

子どもとして意識があって戦禍を体験した世代の最後は1942(昭和17)年生まれ、75歳前後が最後である。
しかし沖縄で米軍政下を意識的に体験したのは1969(昭和44)年生まれ以前であるから現在48歳以前の人たちである。

 

沖縄では戦争、戦後の意識が共有され(風化の危険もささやかれているが)、本土ではほとんどが忘却されている。
この意識の差が大きな軋轢を生んでいる。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/