人の生死は残る者の心に刻まれ、受け継がれていく

前回の更新が7月29日だから、1ヶ月以上放置したことになる。
過去には半年以上放置した前歴があるから、私としては珍しいものではない。

放置の理由はいつも単純である。
他にやることに気が囚われて、更新できずの日が続いて、そのうちこれを書こうか、あれを書こうかと迷い、結局手つかずになる、ということだ。

そこできょうはかまえず、今朝の新聞で、これはと思ったことを書き留める。

「大のスポーツ狂い」(皆は信じないかもしれないが中高ではバスケットボールの選手で、結構優秀なガードのプレイヤーだった)としては、心躍る出来事だったのは昨日、陸上100m男子、桐生が日本人初の9秒台、9秒98で走り抜けたことだった。
「暁の超特急」吉岡隆徳が当時の世界タイ記録10秒3を記録したのが1935年のこと。
桐生が高校3年で10秒01を記録してから、その後何人かのスプリンターが出てきたが、私はなぜか桐生に賭けていた。
その桐生が9秒台に突入したのだから昨日から心が躍り放なしである。

今朝の朝日では「科学の扉」で気になる記事が。
「『想定外』を考える新感染症 瞬く間に」
である。
そこで書かれているが

 
20世紀中に起きたパンデミックは3回あり、すべてインフルエンザだった。世界で2千万人以上が死亡したとされるスペイン風邪(1918~19年)も、元々は鳥インフルエンザウイルスが起源とされている。

 パンデミックが起きれば交通網が止まり、医療機関は患者であふれる。世界銀行は、スペイン風邪のような深刻なパンデミックが起きた際の損失を世界のGDPの約5%にあたる4兆ドルと試算している。国の想定では最悪の場合、国内の患者数が2500万人、死者を64万人と推計。米政府は今年6月に発表した想定で、死者は最悪で193万人に上ると予測している。

これだけ公衆衛生が徹底する世の中になったが、人間は感染症(かつては「伝染病」といわれた)を克服できていない。
それどころか地球温暖化、グローバル化、人口増加で、「動物から人へ」という感染症の脅威、瞬時の拡散、大打撃の脅威は拡大している。

想えば日本でも中世に「疫病」と恐れられ、日本人の死穢(しえ)意識を決定づけることになったのも感染症の脅威であった。
(ケガレ意識というものはこうした事実に基づいていることを知らず、どうでもいい議論を展開している人類学、民俗学の「学者」が多すぎる!)

東ローマ帝国が機能不全に陥った背景にはペスト大流行による人口の急激な減少があった。

「メメント・モリ」(死を想え)という言葉が有名だが、これは14世紀の「黒死病」と恐れられたペストの大流行を背景としている。

話は替わり、
広告特集で私の大好きなミュージシャン山下達郎が取り上げられている。
新曲REBORNについて話しているところに過不足なく彼の死生観が語られている。

「僕は、人が死んだら灰になるだけ、という死生観には納得できない。
家族や友人たちが一人二人とこの世を去る中で、たとえ彼らが社会的に特別なことを成し遂げたわけではなくても、彼らが生きた歴史や思い出は、残された者も心に刻まれていく。そして、それは受け継がれていく。」

大げさに言えば、私たちが歴史の中に生きている、というのは有名無名を問わず、生きて死んでいった人たちの流れの中にいる、ということであり、その中で私たちも死んで次の世代にバトンを渡していくということである。

これからも時たまこのブログを書く。
あまり期待しないでいてくれると気が楽である。
「ブログの更新が止まっていますね」と言われるのは結構プレッシャーである。
気が結構弱いのだ。

近況で言えば、たいしたことはないのだが、1週間前ほどからときたま咳込む現象が生じて悩んでいる。便秘だといっては気にし、眼がむずかるといっては目薬をさし、右耳が聴こえにくい(今は治った)といっては心配し・・・原稿を少しずつ書きながら悩んでいる。そんなつまらない気が小さいことにくよくよしている。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/