死学 ―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理(1)―遺体に対する考察

遺体に関する考察

 

「遺体」についてはこれまで何回か書いている。

しかし、ブログではまとまった形では掲載していない。そこでこの地味だが逃れられないテーマについて、さまざまな形で書いたものを再編して掲載する。
SNSという特性の同時性とはかけ離れたものであるが、ご理解いただきたい。
しばらく続くが、関心のある方は目をとおしていただけると幸いである。

 

葬儀を論ずる場合に「遺体」は外せない。
しかし、過去に仏教会との関係で葬儀について書き、その中で遺体について書いたら、「残酷過ぎる」ということで、その箇所がカットをよぎなくされたことがあった。


葬儀は死を受けとめる作業であり、プロセスである。遺体の現実を見ずして葬儀を語れるか、と憤慨したが、それまで散々と意見の違いで摩擦が生じていたので、やむなくカットした、という苦い思い出がある。

 

最初は

死学thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理」
IFSA『遺体衛生保全概論』所収)
を3回に分けて掲載する。

 

 

死学thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理①

 

1.死学とは何か?

 

はじめに

 

本論は遺体を取り扱うエンバーマーにとっての遺体の取り扱いに関する倫理について書くことを本旨としている。
但し、エンバーミングは別名で「葬儀科学funeral science」とも称されるように、大きくは死学thanatology,death studyに位置づけられるべきものとしてある。


ところが死学とは、欧米においても日本(多くは「死生学」という用語において)においても内容は確定しているものではない。

人の死は個の死だけではなく、近親者(血縁に限定せず親しい関係を結んだ者、という意味で用いるが)等との関係において起こる出来事である。その意味では医療という範囲を超えていく。

近年においては、1995年に生じた117阪神・淡路大震災、2011年に生じた3・11東日本大震災において数千人、数万人というレベルでの大量死が起こっており、そこで死者および近親者への取り扱い、支援が問題となっている。
それはあくまで個々の死でありながら社会としてどう対応するかが問われる問題としてある。

考えてみるならば、人間が経験してきた歴史には、常に(と表現していいほど)、日常に発生する個々の死に加えて、感染症、自然災害、近代においては戦争により大量死が繰り返されてきた。

 

乳幼児の死は、戦後日本でようやく抑制することに成功したが、アフリカ、アジア等の第三世界においては今もなお大きな問題としてある。貧困、公衆衛生が人間社会にとって大きな問題となっている。

 

死学は、死を接点とする、そもそも諸側面から問われる問題を、それがしばしば当該分野では単独に、あるいは孤立的に捉えられがちなテーマを、学問分野だけにもにとらわれず、多様な視点から照射して、個々の患者本人とその周囲の近親者に対して、原点を探りつつ、自由で人間的な死、自由で人間的な弔いを支援するとともに、死に対して向き合っていける社会の実現に寄与することを目的としたものである。

死学の最初に関心を呼んだのは終末期医療terminal care)の分野で人間的な死に方を実現するための患者への支援、ケアの場面であった。

近代医療が治療cureを優先し、患者の人間的な生き方を無視しがちな状態に警鐘を鳴らし、cureだけではなくcareも充分に配慮すべきとの主張を行った。
今の日本では大方のコンセンサスとなっているこうした終末期医療は、死学がもたらした大きな成果である。

同時に災害、戦争、事故、犯罪の被害者である近親者の問題にも関心が向けられてきた。

こうしたことに遭遇して死亡した人の近親者だけではなく、がん等の病気の患者に対する近親者の看護、また近親者の死に面した遺族に対する支援、ケアも課題となっている。WHO(世界保健機構)がホスピスの課題として患者本人へのケアだけではなく、その家族のケアも重要と指摘したのは最近のことである。
しかし、この家族へのケアの状況は医療機関では重要なことと認識されていながら、具体的に取り組んでいる事例はまだ少ない。

喪の作業grief workに対する関心は高まっているが、これの障害になっているのは家族の態様や社会のあり方である。こうして死を排除してきた近代の社会も問われることとなった。

今日terminal care 、あるいはgrief careと呼ばれるものの起源は、欧米では宗教者による病者やその家族へのパストラルケアpastoral careにある。ホスピスの起源が修道院に求められるように。

患者やその家族、あるいは災害等の被災者の家族への傷みpain,今、特定の宗教に偏してではなく,スピリチュアルspirichual、つまり根源的問いとして語られている。
死に瀕した人、あるいは死別した人の傷みが深いことをspirichual painspirichual careは語る。だが、これは中世社会が経験したように論理を超えるゆえ危険性があることも心得ている必要がある。

私たちが求められているのは病気の人、被害に遭った人、そしてその人たちの死に向かうプロセスにおいて抱く傷みと看取りと死別後に抱く家族の傷みに対して、まるでその人のことがわかるように説くことではない。
常に謙虚に固有の傷みとして受け止め、理解しようとする態度である。死者への尊敬、遺族への配慮はささやかな佇まいであり、日本語で呼ぶ「遺体衛生保全」embalmingは彼らに捧げるささやかな一つの環境なのだと思う。

(続く)

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/