新潟市(旧巻町)の日蓮宗角田山妙光寺の法灯継承式に行ってきました。
妙光寺は永代供養墓の先駆け安穏廟で知られますが、それだけではなく、お寺が生きるということを模索し続けてきた寺です。
http://www.myoukouji.or.jp/about/index.html
700年の歴史をもち、まさに過疎地にある寺。
日本の寺の典型ともいうべき寺でした。
その寺がどう変わったか、は一つの実験例として広く検証される価値があります。
角田山妙光寺の住職が2017年11月18日に第53世小川英爾(今後は院首)さんから第54世小川良恵さんに交代する法燈継承式が行われました。
小川英爾さんの在任期間は42年。
先代小川陽一住職が66歳で亡くなり、引き継ぎもなく22歳で就任。
先代と同じ年齢となるのに合わせて次代への円滑な承継を願ってのもの。
良恵さん32歳。妙光寺初の女性住職。
今後は「院首(インジュ)」で、良恵さんが「御前さま」
山門から住職、新住職、檀徒総代等が行列で入堂(先頭は前に妙光寺に勤務した大分の常妙寺住職・永石光陽さん)
見守る小川なぎささん(53世夫人、54世母)
継承式を前に(左から大分の亀山さん、大分の菊地さん、私、小川英爾さん、鎌倉の松脇さん。松脇さんは良恵新住職の師僧)
寺を支える女性陣(の一部)上右は新住職の師僧である松脇さん夫人。20年前に妙光寺で出会った。
記念誌編集後記
碑文谷 創
■本書は、「寺が生きる」とはどういうことか、を実践、模索した記録である。
角田山妙光寺は、700年の歴史をもつ古刹である。
しかし、その歴史、地域社会との関係を大切にしつつ、時代、社会の変化に対応して、寺に縁をもつ人々の信仰と生活、地域社会との関係を築こう、と変化を模索し続けている寺である。
■現在、1955(昭和30)年以降の日本社会の都市化、地方の過疎化の大きなうねりが地方の寺を直撃、「寺院崩壊」という声を聞く。
7万ともいわれる全国の仏教寺院で、自立可能な寺は、厳しく見るならば3万にもならないだろう。
人が地域を去り、残るは高齢者のみ。寺は老朽化したまま、地域から去った人々の墓は放置されている。
最も深刻なのは、都市、地方を問わず、寺と人々の関係の距離が開いていくばかりなことである。寺の存在意義がどんどん失われていっていることである。
■妙光寺が他の寺と一線を画す一つは、信仰の見直しを行ったことである。
日蓮宗は日蓮聖人以来、強固に現世安穏を提唱した。
これを現代に活かすために「徹底して人々の生活現実に寄り添う寺であろう」とした。
檀信徒のみならず、地域の人々が高齢化、家族の変容、労働環境の悪化、精神的孤立という中で呻吟している。
人々のところに行って話に耳を傾け、また、人々が困った時に気軽に寺に寄ることのできるように、と考え、実践した。
■いま妙光寺では生前に法号を受ける人が多い。
法号は死後の名ではなく、仏弟子として生き、死のうと志すことの証である。
法号を授与された人々が寺の活動の支え手となっている。
寺は住職のものではなく、寺を支えようという意思のある人々がいて生きる。
■「安穏廟」は、どんな家庭環境、人の個性、個別事情にもかかわらず、すべての人に開かれた寺を志向している。
「墓」は単なる死後の葬地ではない。
墓は、どんな境涯であってもすべてのいのちの尊厳を守るところであると同時に、寺はその墓を求める人の生死を支える責務がある、という永代供養墓の理念を明らかにした。
これが人々の共感を呼び、墓を求め、墓を求めた人の中から寺の支え手を生み、寺を活性化させてきた。
■こうした寺をつくったのは、小川英爾という異能な住職の力だけによるものではけっしてない。
それこそ700年にわたり寺を地道に支えてきた檀信徒たちの「自分たちの寺を生かそう」という熱意と参加の賜物である。
檀信徒だけではない。
妙光寺に縁のある人々が、それぞれの仕方で住職を信頼し、足らざるところを補い、寺を支え、再生させたのである。
■本書の編集に参画できたことは幸いであった。
本書は、小川英爾住職の次代への強烈な想いの産物である。
併せて、新倉順さん、新倉理恵子さん、かもかよこさんの献身的な参画があって誕生したものであることを記し、感謝したい。
また、編集中、常に頭にあったのは「檀信徒の方々の寺への想いに応える記念誌に」ということであった。
このお寺、かつては住職募集をしていませんでしたか?
応募者も多数あったと聞いていますが、結局は、娘に継がせるということでしょうか?
(碑文谷です)
実際に複数の候補者を選び、数度実習しましたが、「住職」としての合意を得られませんでした。
今回、良恵さんも僧を志し、修行し、候補者に立候補。檀信徒さんたちがその姿を見て、後継者に、と合意しました。
血縁ゆえに見かたは厳しいでしょうが、それだけ檀信徒の期待も大きいです。