少しずつ記録。
「エンディングノート」と「終活」
「終活」という言葉は、今やすっかりと定着した感がある。
経過として見るならば、まず「エンディングノート」がブームとなり、それを後押しするように「終活」ブームが現れた。
■エンディングノート
「エンディングノート」について、『現代用語の基礎知識2007』に私が記載した原稿データが残っている。
(もし2007年版が最初であるとすれば、本年(2017年)11月9日発売開始される『現代用語の基礎知識2018』まで12年連続して「葬送」編の用語解説を継続執筆していることになる。)
♦エンディングノート
「遺言ノート」とも言う。「遺言」は法律的な文書で主として死後の財産について定めるもので葬式の希望等は法的拘束力がない。エンディングノートは、法的な拘束力は弱いものの、自分の臨終における尊厳死の選択、葬儀についての希望、残される家族へ贈る言葉、自分史、葬式の案内をする親戚・友人の名簿、書類の保管場所、家系図等を記して、残す遺族へのメッセージ、覚書を記すもの。
「エンディングノート」という用語ではないが、市販本としての最初は、井上治代『遺言ノート―死ぬ前にどうしても残しておきたい大切なこと』(1996年7月)だろう。
■本邦最初はセキセー
もっとも最初は、それより先行する2~3年前、名古屋のギフト会社㈱セキセー(現在はシャディ㈱セキセー事業部)が葬儀の事前準備として会社(社葬)の場合と並んで個人(個人葬)の場合について小冊子を作成している。
㈱セキセーの創業者で、当時社長の石原正次さんの企画で、葬祭業者対象に消費者への販売ツールとして作成されたものである。
石原さんはアイディアマンとして知られる。
会社のメイン商品は葬儀の返礼品の販売であったが、葬祭業の未来についてさまざまな企画を提起した。
葬祭業を「Death Industry」と定義し、葬儀だけではなく、葬儀の前before、葬儀の後afterを含む一連のことを取り扱う事業であるべきことを早い段階から提起した。
その企画の一つが社葬の準備、個人葬の準備のための小冊子の企画であった。
エンディングノートについて「本邦初」というならばセキセーの企画であろう。
■東京都生活文化局『わたしたちのデザイン―葬送―』
私も、署名のものでも市販のものでもないが、最初期のものを書いている。
おそらく地方自治体が「葬送」をテーマに作成した最初の書籍である東京都生活文化局『わたしたちのデザイン―葬送―』(1997年3月)で私が担当した「巻末チェックシート」である。
エンディングノートがその後「自分の死後に備える」ものに傾斜していくのに比して、全体を「わたし自身について」と「家族について」とに分け、「家族の死、死後」についても対応しているのが特徴である。
大きな項目だけを以下上げる。
1.わたし自身について
・後継者について
・ターミナルケアについて
・葬儀について
・墓について
・死後の手続きについて
2.家族について
・臨終の際には
・死の宣告をされたら
・遺体の安置
・見積
・宗教者との打ち合わせ
・通夜
・葬儀・告別式
・会食
・お礼のあいさつ
・諸手続き
・追悼儀礼
これの原型にしたものをホームページに保管しているので、当分見ることができる。
もはや歴史的産物と言ってよい。
チェックシート
自分の死 葬儀の準備 https://hajime-himonya.com/?page_id=638
家族の死 葬儀の準備 https://hajime-himonya.com/?page_id=786
東京都生活文化局『わたしたちのデザイン―葬送―』は、3万部製作したと記憶している。
地方の大小自治体の関心も高く、増刷希望が相次いだが、予算内で作成する配布物という位置づけのため重版はかなわなかった。
B5判144ページの本格的なもの。このハンドブックは結婚編とペアで制作されたが、私が関与したのは「葬送」編のみ。
葬送編の執筆にあたったのは、私のほか嶋根克己さん(専修大教授)、井上治代さん(元東洋大教授。当時はノンフィクション作家)、御船美智子さん(お茶の水女子大教授)、そして都の担当者。
結果として、私が3分の2程度を書いた。
今は入手できないものなので、主な内容と主な筆者(記憶を頼りに)を記録しておく。
第1部 葬送の変化
・第1章 葬儀を知る(嶋根さん)
・第2章 変化する葬送観(都担当者+碑文谷)
・第3章 墓地を考える(井上さん)
第2部 葬送のプロセス
・第1章 葬儀の手順(碑文谷)
・第2章 死後の手続き(碑文谷)
第3部 葬儀と費用
・第1章 葬儀にかかわる費用(御船さん)
・第2章 会葬と交際費(碑文谷+都担当者)
第4部 葬送と法律
・葬送に関する主な法律(碑文谷)
巻末 チェックシート(碑文谷)
参考 葬儀に関する情報バンク(都担当者)
■「終活」
「終活」は、2012年にユーキャン新語・流行語のトップテンに選ばれ、あっという間に市民権を得た。
「終活」という用語は週刊朝日による造語。主として葬儀や墓について考えようという主旨の連載だったと記憶している。
■経産省「ライフエンディング・ステージ」
だが「終活」に、葬送分野以外の司法書士、保険やらの事業者がわっと飛びついたのは2011年夏に公表された経産省「ライフエンディング・ステージ」に関する研究報告発表が契機となった。
省庁が終末期医療、介護、遺言、エンディングノート、成年後見、介護保険、葬儀保険、葬儀、墓、遺族の死別による悲嘆、遺産相続等の死後の事務処理その他の人生の終末期~死後を一連の流れとして提示し、その課題を提起した最初のものであったろう。
終末期医療や介護は既に大きな問題としてあったが、その後の遺族の抱える問題までを一環として捉える視点のものはなかった。
日本は高齢化率が世界一の超高齢社会となったが、過去の基盤であった家族、血縁、地域共同体が弱まり、個人が周囲のサポートが得られにくくなり、行政もそれを充分にサポートするだけの人も金も不足するなか、社会的にどういうサポート体制を築くべきかの民間への問題提起としてあった。
終末期、死、死後…は、人としては一連の流れの中にあるのに、それに係わる業界は分断され、横の繋がりに欠けている。
そのため情報は氾濫しているがその質に問題があるものが多い。
(現在も情報は氾濫しているが、情報の質は大いに憂うべき状況にある。他の人も指摘しているが、一部を除き、テレビや雑誌に出てくる自称「専門家」「コメンテータ」、雑誌に書いている素人「ライター」の質が低くてウンザリ。要するに「書く」「話す」ことへの責任、プライドがないのだ。取材も本来関心がないものだから、他媒体が一度取り上げたところを安易に取り上げ、しかも表面的なおざなりなものが多い。クオリティを看板にする『アエラ』も酷い。)
当事者はどれが適正な情報かの判断がつかず、最も重要な自由意思に基づく判断・選択が困難な状況に置かれている。
報告書では、そこで隣接する専門家同士が問題意識を共有し、ネットワークを構築し、生活者のサポート体制を構築することの必要性を説いた。
私も報告書作成に数回徹夜するほど深く関与したので、報告書が評価されたこと自体はうれしいが、その後の動きにはいささか心配である。
(この研究会の第1回に私が参加したのだが、座長は嶋根さんで、東京都と併せて印象深いプロジェクトでご一緒することになった。)
■「終活ブーム」の背景となる社会変化
死の問題は戦後、特に高度経済成長期以降、長く敬遠、忌避されてきた。
ようやく注目されるようになったのが、1985年以降。がんを中心とした終末期医療のあり方がまず問題となった。
その後の進展は速かった。
高齢化が進み、家族、地域社会は急速に弱体化した。
伝統的家の象徴である墓も継続性が疑問視されるようになった。
この遠因は日本社会の興隆期とも言うべき高度経済成長にあり、急速な人口移動による地方の崩壊、核家族化の末路としての家族解体と単身世帯の増加を結果した。
しかも高齢化がここに加わった。
8割あった在宅死が2割を切るまで減少し、現実に死に向き合わない家族が増え、リアルな死の認識が欠け、抽象化した。
「個人化」と言うと好ましく聞こえるが、「個人」についての社会的合意のないまま、さまざまな分野で孤立を強いた。
死も例外ではない。
経産省報告書発表以降、錦の御旗にするようにさまざまな人たちが「終活」に乱入してきた
口あたりはいいが、生活者当人の真の利益なぞ考えていないのではないか、と思われるものがたくさんあることが心配である。
「終活」に関心のある人は3割以上と高いが、実際に準備しているのは5%足らず、というデータがある。
圧倒的な多数は、「終活」と無縁に終末期を過ごし死んでいる。
こうしたところで数々の問題が発生している。
この部分にもっと照射すべきではなかろうか。
お断り:本稿の一部は「ソナエ」のコラムに掲載した。