Q
血縁者の死について、先祖・子孫のタテ関係において、その方の「死」を弔うため(受け入れるため)の葬儀の中に、タテの関係がどう関わってくるのか?「若い世代に受け継ぐ」現代に相応しい形態は?家族葬、近親者葬の中にタテの流れをどう表現するのだろう?
A
私は、父母や義母の死の際に、孫どもに自由に遺体に触って自分たちなりの別れを時間制限なしに行うようにしました。
子どもたちは自分たちの「オジイチャン」「オバアチャン」との別れを自分なりに自然に行っていました。
恐がりもしませんでした。
また私は、家族の死に立ち会って動揺したり、かなり無様な姿を家族にさらけ出しました。
それを隠そうとも思いませんでした。
臨終、葬儀は、若い者、子どもにとって死に直面する貴重な機会です。
ちゃんとその場に立ち合い、皮膚で感じる大切な時間、空間です。
私は意図してその機会を重要視しました。
頭だけでいのち、死は理解できるものではありません。
子どもにも家族に対する想いや感情があります。
私は「先祖祭祀」をことさら重要視はしませんが、両親、祖父母。曾祖母、曽祖父(残念ながら史料もここまでが限界です)の歴史は大切にしています。
私のいのちはその人たちに負っていることは確実ですから。
ですから、できるだけ具体的に一人の先達として間違ったことも含めて検証し受け取ろうとしています。
葬式というのは身近な者の死を通じて、遺る者がまるごとその人生を受け取ろうとする機会です。
人間の歴史はバトンタッチされてきたわけで、その具体的な機会が葬式であると思っています。
叔父の葬式のことを思い出します。
この世的にはけっして成功者ではなく、家族にも迷惑をいっぱいかけました。
火葬を待つ間、叔父の悪口のオンパレードでしたが、それは立派ではなかった叔父への家族の愛情がほとばしった、まさに泣き笑いの凝縮された時間でした。
いのちのバトンタッチというのは、こうした死者との向き合いの中で行われるのであると思います。
葬式にはタテの関係だけがあるわけではありません。
姉の葬式では姉と付き合いのあった方々から私の知らない姉の一面を知らされました。
けっして家族だけでは知ることのできなかった重要な姉の一面を知ることができました。
私たちもそうですが、姉の友人たちも積極的に私たちへ姉への想いを伝えようとしてくれたからできたことです。