72歳になった。
「まだ若い」との世辞を聞くこともあるが、それは社会のすさまじいまでの超高齢化を背景としており、人間の自然としては老齢である、と自覚している。
70歳は「古来稀なり」であることを自覚している。
しばらくブログを放置していたが、少しずつ書いていく。
ブログを書いていると、「書きかけ」というのをしばしばする。
次を展開しようと思っているのだが、つい違う話になってしまう。
このブログでもいくつかの書きかけがある。
その一つが「葬祭仏教の史的展開」である。
「葬祭仏教の誕生」を書いたのが2017年3月1日であるからほぼ1年前である。
https://hajime-himonya.com/?p=1513
いささか遅いが、その続編を書く。
葬祭仏教の史的展開
(1) 葬祭仏教の誕生
https://hajime-himonya.com/?p=1513
(2) 葬式仏教と葬祭仏教(今回)
■仏教民衆化の社会的背景 「戦国仏教」
仏教が民衆化するうえで社会的背景が左右した点もあるとの指摘もある。
歴史家・湯浅治久は『戦国仏教』(中公新書)で、次のように指摘する。
戦国仏教という言葉がある。じつは鎌倉仏教が真に地域に定着するのは室町から戦国時代にかけてであり、それゆえ、鎌倉仏教ではなく、これを戦国仏教と呼ぼう、とする研究者が考え出したものである。
この本は日蓮宗を例にとり戦国仏教として僧侶たちの民衆との係わり合いを丁寧に追った本である。
湯浅は、戦国時代が「わき上がる社会の底辺の民衆の力があり、民衆が躍動する時代」という従来の見方に対して、戦国時代が「寒冷化と飢饉に見舞われた社会で、人々が生存をかけて闘った時代」という見方を紹介している。
湯浅は千葉県松戸市の本土寺の過去帳を分析し、「この時代はまさに繰り返される飢饉の時代であったのであり、その際には多くの人々が死を迎えたのである」という事実を示し、そうした過酷な時代にあって本土寺が教線を延ばしたことを指摘し、次のように述べる。
人々がその家族・縁者の死に直面して、信仰を欲し、葬送や追善の儀礼を受容することが、その教線の展開を保証していたとしか考えられない。
そして次のように書く。
また、有力者でさえ餓死に至る、とするならば、そうした事態での信仰への帰依、そして喜捨のもつ意味はいっそう重くなるのではないだろうか。その背後には、そうした信仰にもすがることができない無数の非力な人々のおびただしい死が存在していたに違いない。そうした現実こそ、宗教が受容される実質的な受け皿だったのである。
例えば現在の葬送事情の変化の背景に、超高齢社会の到来、戦後世代が喪主となること、バブル景気の崩壊~長期デフレ~格差社会、阪神・淡路大震災、東日本大震災、死・葬儀の生活離れ、地域・家族の変容による個人化の進展…という社会的変化を入れることを否定する人はいないだろう。
仏教の民衆化には、仏教側からのアプローチと併行して、民衆のニーズ、事情が大きな要因となったことは視点として確保しておくべきだろう。
■庶民が仏教に求めた葬祭―圭室諦成『葬式仏教』
葬式と仏教を語るうえで外せない文献は圭室諦成『葬式仏教』(大法輪閣)である。
圭室は、その「はしがき」で次のように語る。
庶民が仏教にもとめているものは、(1)葬祭、(2)治病、(3)招福、の三つである。歴史的にみれば、まず治病、つぎに招福、一五世紀ごろから葬祭という順序になる。そして葬祭化してはじめて、仏教は庶民の信仰を独占することに成功している。ところで現在の仏教においては、治病・招福の面が相対的に弱化し、葬祭一本といっても過言ではない。
これには異論のある仏教者も多いのではなかろうか。
「仏教には宗教が期待されていないのか」と。
だが、「葬祭化してはじめて、仏教は庶民の信仰を独占することに成功」したということを事実として否定はできないだろう。
また、現在の日本仏教寺院において、望ましいか望ましくないかは別として、少なくとも財政的には「葬祭」に支えられているという現実を否定できないでいるところが多い。
■「葬式仏教」と「葬祭仏教」
私は従来「仏教が、概ねにおいて、葬祭一本でしかないことを否定的に語る」ものとして「葬式仏教」という名を与え、「仏教が、概ねにおいて、葬祭一本でしかない事実を語る」ものとして「葬祭仏教」という名を冠してきた。
この2つを分けるのは経済基盤でも外見的行動でもなく、言葉ですらない。
態度である。
態度を分けるのに適当な用語がないものだから、勝手に使い分けている。
言うならば「葬式仏教」は「堕落した」とか、さんざん手垢に塗れているため、中立的表現としては、より使用されることが少ない「葬祭仏教」を持ち出したのである。
また、これは私のみの意見ではない。
浄土宗宗教研究所が、仏教が葬祭に係わることを貶めたり、自嘲すべきでもなく、「課題」として取り上げた『葬祭仏教』(伊藤唯真・藤井正雄編、ノンブル社1997)に負っている。
「葬式仏教」という言葉自体がすでにマイナスの価値評価(開き直りも含めて)をもつことから、いったん「葬式仏教」という言葉から離れて、いまだ手垢がついていない「葬祭仏教」という言葉で論議すべきだ、という主張が、この本には見られるからである。
これはいまさら「葬式」という言葉と「葬祭」という言葉を知ったかぶりして意味的に区別することによって出てきたのではない。
私が「葬式仏教」を批判するのは、葬式に対して生業として係わるものの、葬式に対して必ずしも自覚的に取り組んでいる例が少ないからである。
実際に僧侶養成機関において、「死」について、「グリーフ(死別の悲嘆)」について専門的に教育してきただろうか。(東日本大震災以来、「傾聴ボランティア」としての教育が多少開始されてはいる。)
それもせず、ポンと(私がよく用いる擬態語であるが、サポートもなく放り投げられ)寺という現場に置かれた僧侶が、死にゆく人や、死者を抱えることになった遺族の前に立たされて、試行錯誤してきたのではないだろうか。
多くの僧侶が語ることであるが、初めての葬儀への出仕は、人生経験も少ない若い僧侶を当惑させるものであった。
その体験に「よりよく学んだ僧侶」とその体験に「何も学べなかった僧侶」とがいるというあたりまえの事実がある。
学べなかった僧侶は、結局のところ「葬式に係わる意味」を自覚しないままに、収入源としての葬祭行事を執り行う。
また、「教義的には意味はないが、檀家が求めるから応じる」という態度を取る僧侶もいる。
また、僧侶のなかには、葬式、法事において「異常に」としか表現できないほどに「権威的」である場合がある。
「導師」は死者(の霊)の行き先を左右できる力があり、権威と受け止められるべきである、と暴力団の縄張りよろしく、対抗するものが何であれ排除して、自らの権威を守ろうとする僧侶がいる。
葬式の主宰者は「僧侶以外にはいない」と思い込み、権益を守ろうとする。
こうした誤解をした僧侶が、死者を抱えた遺族を顧みず、どれだけ不当に嘆かせ、どれほどの痛苦をもたらしてきたことだろうか。
その怨念、諦観、嘲笑が「葬式仏教」に対する非難を形づくってきた原因の一つであることは確実であろう。
「葬式仏教」が非難される点は、よく「葬式や法事にしか係わらない」点と言われる。
事実はそうではないだろう。
「葬式や法事でも、意味あることをしているとは思われない、いい加減な係わり」からであろう。
日本仏教が民衆の中に根付いたのは、「死」を抱えて精神的危機、困難、悲嘆を抱えた庶民に係わった、つまり葬祭をしたことによる。
また、日本仏教が民衆からいま見放されるのではないかという危機にあるのは、一人ひとりの死、悲嘆に寄り添うことを忘れた僧侶が白日のもとに晒されるようになったからである。
もちろん戦後文化が伝統的習俗としての葬祭への仏教の係わりを当然視しなくなった、いわゆる「世俗化」も反映してのことだが。
実際に「寺」を見ていると、それは皆同じではない。
無論、地方にある寺は村落の過疎化、檀信徒の高齢化には共通に影響を受けている。
そうであるものの、寺と檀信徒の関係は一様ではない。
力を込めていっておくが、死という現場に誠実に対応している僧侶の下にいる檀信徒や信者は、仏教を疑おうとすらしていない。
そこには深い信頼で結ばれた絆がある。
もちろんそこまで信頼を受けている僧侶が「死」だけに係わっているわけがないのだが。
そういう寺も、残念ながら多数派を構成するまでにはなっていないものの、確実に存在している。
あまり先を急ぎすぎたようだ。次回以降、圭室らの説くところをいま少し追っていこう。
(この項続く)