聖たちの世界ー葬祭仏教の史的展開(3)

葬祭仏教の史的展開

1 葬祭仏教の誕生
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2 葬式仏教と葬祭仏教
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3 聖たちの世界(今回)

■仏教伝来

圭室の『葬式仏教』の本文の書き出しはこうである。

日本人の信仰基盤は自然崇拝であった。それは私たちを取りまく自然のなかで、自分たちに有益なものにたいする依頼、そして危険なものにたいする恐怖、という相対立する二つの感情の、率直な宗教的表現である。

圭室はこの先、古代からの神話、発掘成果をもとに辿るのだが、ここでは省略する。

6世紀に、日本古来の信仰があるなかで仏教が輸入されることになる。

仏教伝来当時の日本は、蘇我・物部二氏のあらそいに典型的に表現されているように、氏族檀権の時代であった。(略)当時の氏族首長は、現世利益的な貴族宗教を要求していた。かれらの求める現世利益の宗教とは、一体どんなものであったろうか。一口にいえば、息災延命と富貴栄達の要求を満足させてくれる宗教である。

仏教は、恩恵性の豊かな宗教で、インド・支那におけるながい歴史において、貴族の要求に対応する資質を充分に獲得していた。かくて仏教は、六世紀中葉に、日本の社会の要望にこたえて颯爽と登場した。

しかし、この仏教の受容は首長宗教としての限界、病気平癒、災害除去を「祈願される程度」であった。
そして聖徳太子が国力強化を企図して、宗教面においては「首長仏教を国家仏教に転換することを意図」した。
国家の積極的な保護により大化の改新(646年)以降、寺院が顕著に増加する。
国家仏教として奈良時代もっとも華やかだったのが華厳宗で743年の東大寺建設計画に至る。

平安時代、仏教は貴族の信仰を集め、貴族の喜捨により荘園領主化を進め、顕密諸教は、平安末期には貴族の財力をしのぐほどにまでなる。

また、この時代、本地垂迹説
(小学館『佛教大事典』によれば、「本地より迹を垂れるの意。本地は根本の本体、迹は具体的な姿のこと。『法華経』の教説に由来し、宗義は、絶対・真実の仏が釈迦としてこの世に身を現わしたこと。転じて、諸仏・諸菩薩が衆生を救うためにそれぞれの風土・社会に応じて身を現わすこと、また、その現わした姿をいう。〈略〉一一世紀末ころには八幡神の本地は阿弥陀仏であるという説が成立し、以後、続々と各地の神社の本地仏が確定していく」)
により、神即仏菩薩として神仏習合が進んだ。

これを政治的には台頭する武士勢力と王朝側のせめぎ合いとして見たのが日本中世史家・義江彰夫の『神仏習合』(岩波新書)である。

義江は、仏教伝来以降も基層信仰としての神祇信仰は社会底辺に根強く生き続け、王権と結びつき、普遍宗教としての仏教に見合うべく変容した。
キリスト教がヨーロッパで各地の基層宗教を吸収し、下に置いたのに比して、神祇信仰と仏教が開かれた結合、並存をした「神仏習合」を高く評価している。

また、この貴族層と結託した仏教を変えよう、そこから離れようとして遁世した聖(ひじり)たちの先駆者が9世紀の教信沙弥、10世紀の空也である。

■聖たちと浄土教

圭室は、遁世聖たちが限界をもっていることを指摘しながら、

真実の宗教をもとめる人々が聖となって、清貧の生活のなかで求道に精進する姿、それは日本仏教史において、もっともすがすがしいひとこまである。その中から鎌倉時代の新仏教である浄土宗・真宗・日蓮宗・禅宗などがめばえたのも当然のことと思われる

と述べている。

曹洞宗総合研究センターの竹内弘道は「日本仏教と葬祭の関わり」(曹洞宗総合研究センター編『葬祭―現代的意義と課題』所収)の中で、高野聖たちが全国を巡って高野山への納骨を呼びかけたこと、火葬に関与した私度僧(在野の僧)である「三昧聖」がいたことを指摘している。
10世紀の空也がその先駆けといわれる。

一方、浄土教の僧侶たちの中から臨終行儀、葬式を重視する恵心僧都源信(942~1017)らの二十五三昧会が現われ、阿弥陀信仰、浄土信仰を盛んにし、浄土教を庶民化する契機となった。

■鎌倉新仏教と葬送儀礼

竹内は次のように述べる。

仏教的葬祭儀礼が広く民間へ普及したのは、鎌倉から南北朝・室町・戦国期にかけてですが、そのことに、鎌倉新仏教の祖師たちが創設した中世仏教教団が、大きく寄与したことは歴史的事実です。彼らが、日本の歴史社会に果たした大きな役割はここにあったといっても過言ではないでしょう。そして、そのことを可能にしたのは、こうした祖師たちの教団が、遁世教団としての性格を持っていたことと無縁ではありません。

鎌倉新仏教を創設した祖師たちと、葬祭儀礼を積極的に行ったその門流の人々とを、単純に同一視することはできません。しかし、前時代から葬儀をになってきた三昧聖や念仏僧、さらに陣僧のように戦乱の中で死者の供養にたずさわった僧や、「毛坊主」とよばれた半僧半俗の僧たちと、これら遁世教団は、体制外の仏教者として、共通した伝統のなかにあったことは重要です。彼らは、そのことによって平安時代以降次第に強まった「死穢」の観念を厭うことなく、民衆救済のための布教活動として積極的に葬祭にかかわっていくことができたのです。

もちろん、彼らは独自の信仰や理論によって「死穢」の観念から自由であったのであり、葬祭儀礼を執行するに当たっては、前時代からの滅罪や鎮魂にとどまらず、往生や成仏という新たな意義づけをもって、これを執り行ったことは見落としてはならない重要な要素です。

しかし、「鎌倉仏教」と言われるものが仏教の民衆化をなしたというのは短絡である。

鎌倉仏教と言われるものを担った僧たち、聖と言われ民衆の葬儀に係わった僧侶たちが共通に「遁世聖」という共通の存在であったこと。
また、仏教葬儀が平安時代にはもっぱら死者の滅罪や死者の霊の鎮魂ということに求められ、その呪力に期待されていたのが変わり、聖たちは、民衆の中へ入り、死者(死者の霊)の往生、成仏という死者(の霊)の行方を問題とし、弔ったということである。
(この項続く)

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/