■葬研.com「碑文谷創の葬送基礎講座」第2回
「少子多死社会」ということ
4月1日(2019年)より月2回(1日、15日)1年間の予定で
葬研.com
に「碑文谷創の葬送基礎講座」と題して連載をしている。
その第2回が4月15日に掲載された。
題して
「少子多死社会ということ」
https://葬研.com/himonya2
「少子化」「多死社会」「死に対する感覚の多様化」
について書いた。
マスコミは「多死社会」即「火葬場が不足する」とばかりに、ほんの一部の都市計画を失敗している都市の例を引き合いに出して騒ぐが、噴飯ものである。
マスコミの愚は、実情をよく調べることを怠り、素人よろしく報道して煽ることである。
それは記者が丹念に取材を重ねて取り上げるのではなく、下の担当者が自分には何の問題意識もないのに、上部からテーマを与えられ、ただこなしていることから発生する。
特にテレビは下請け制作会社に時間埋めを求めており、中身がどうかということより、おもしろおかしければよい、というジャーナリストにあるまじき報道が散見される。
その一つが「多死社会は火葬場不足を招く」という報道である。
■「HASEの金曜は聴きこみ寺」パート3
先日来、群馬県太田市の瑞岩寺住職の長谷川俊道さんが行うポッドキャスト「HASEの金曜は聴きこみ寺」に出演しており、昨日4月19日に3回目が更新された。
瑞岩寺は
https://www.zuiganji.com/
「HASEの金曜は聴きこみ寺」は
http://podcast5.kiqtas.jp/kikikomi/
「碑文谷創×HASEパート3」は
http://podcast5.kiqtas.jp/kikikomi/archives/2019/04/295-3.html
今回のテーマは「葬式と墓」
・墓
高齢社会になり葬儀は小型化するが、丁寧な送り方はできる。特に通夜は「通夜式」なんてアホなことはやめて、原点に還り、遺族が死者と向き合う時間として大切にすることを提唱。
・お墓の問題
戦後の高度経済成長による地方から都市部への人口の大移動によってもたらされた70年代の墓ブーム。
その陰として生じた子がいない人、女性に「無縁になるから」と墓を売ることを拒否した愚かな墓地業者。
それに抗して「誰にも葬られ、弔われる権利がある」と始まった90年代の「墓の大革命」(永代供養墓、合葬墓、自然葬=散骨、樹木葬)。
今「墓じまい」が話題になっているが、これは困った問題なのか、問題は地方の墓地で増加する放置墓にあるのではないか。
今後は既存の墓も含めて承継者がいない事態を想定したシステムにしていかないといけないのでないかと提唱。
新潟妙光寺安穏廟、一関知勝院樹木葬を例に血縁以外に開かれた新しい墓のありよう、公営ではできない寺だからこそできるさまざまな柔軟な対応。
今話題の大都市部に展開される大規模、ビル型納骨堂は維持経費や将来の改造経費を予期しているのか。
…といった問題に言及。
今回は慣れてきたのか、少しまともなしゃべりになっているように思う(あくまで主観的)。
話している内容は、私がこれまで書いてきたことで、特に目新しいものではない。
■「老いる」ということ
昔の学生時代の友人が出版社をやっていて、彼の出版しているものはおよそ文化とは無縁なのだが、久しぶりに電話がかかってきて、
「おまえも俺も歳をとってきたのだから、『老いるということ』をテーマに書け」
と半ば脅迫された。
締切は先、6月初め。掲載となると8月か9月のことだろう。
「少子多死社会」ということ
で次のように書いた。
「死」に対する感覚はある意味露骨である。
40歳未満の人の死は「傷(いた)い」
70歳未満の人の死は「惜しい」
90歳以上の人の死は「納得」
どう扱っていいのか悩むのが70代、80代の人の死。
こう書いたのは私が73歳であることを自覚しているからのことである。
先日も同級生の死を知らされた。
すでに多数の同級生が鬼籍に入った。
周囲には老いて認知症と診断された者の話も、けっして珍しい話ではなく耳にする。
もちろん自分の「明日」すら未明のことである。