「葬儀市場の分化」
なんてあたりまえのことである。
なんでいまさら書いているんだ?
という気分が書いている自分を憂鬱にさせていた。
おそらく高度経済成長もバブル景気も知らない40代、30代、20代の葬儀に係わる人たちにとっては自明なことのはずだ。
40代の人に
「葬儀の小型化という話を聞きますが、私たちが業界に携わった時、葬儀は小型があたりまえだし、個人化もあたりまえでした」
と言われたことを思い出していた。
この20年の間に葬儀市場はすっかり変わっているのに、それを前提に考えなければいけないのに、評論で取り上げられているのは「変わったことの是非」についてだ。
今回更新した
葬研 碑文谷創の葬送基礎講座5「葬儀市場は分化している」
https://souken.info/himonya5
では、40代以下の人たちにとっては自明のことを書いた。
憂鬱になりながらも、「葬儀市場の変化」「葬儀への消費者意識の変化」についての議論を終わらせ、話を次のステップに動かしたい、という想いがあった。
時代の変化は自明なのに、それについて見定めるのには時間がかかる。
また、「個人的な体験」も少なからず影響する。
私は中学生の時、まだ13歳くらいだったのだが、わずか13年前までのことである「戦争していた」ということを、自分が体験していなかったというだけで、とてつもなく昔のことのように感じていたものだ。
2012年に、関西の大学で講義をすることがあって、前年の東日本大震災のことだけではなく、できるだけ身近な話題と思い、95年の阪神・淡路大震災のことを写真を見せながら話したのだが、学生たちはポカーンとした表情だった。
その学生たちは関西出身が多かったとはいえ、その震災が起こった時、まだ幼少で自分たちの体験としてはなかったのだ。
私自身、戦争のことを切実に考え、自分の子ども時代からまさに「戦後を生きてきた」と自覚するにいたったのは、大学に入ってからだ。
葬送は人の生死に深く関係することだから、大げさにいうならば、人の歴史に深く関係してきたはずである。
だが、戦争や震災をもち出さないまでも、人の生死は時代、社会に翻弄されてきたことも事実である。
死に対する穢れ意識は、大雨、洪水、地震、火山爆発等の転変地異や疫病(現在の感染症)の流行に無力だった古代、中世の人たちの深い嘆き、リアルな恐怖感が少なからず影響しているはずである。
死を穢れと見るのが正当か、という議論の前に、それがリアルな恐怖感に基づいたものである、という認識は欠かせないはずである。
家族意識は時代によって大きく変化してきたが、古くをもち出さないまでも「サザエさん」の時代がはるか昔のような感覚にある。
また、「家族」に対する考え、感じ方というのは、「個人的な体験」に深く左右されるものであり、いわば個体のありようで考え方は分裂、多様化している。
さて、分裂した私の頭の中を露呈させてしまったが、いつもは2回分まとめて書いてきた葬研(サイトのアドレスが変更したようだ。今回からhttps://souken.info/になっている)の原稿は6月3日掲載分のみ書き上げ、6月15日分はまだ手がけてもいない。
今週いっぱい悩むことになるだろう。