8月最後の日、大戦のことを思う

8月というのは、例年さまざまな想いに駆り立てられる季節である。

「戦争」の記憶

75年前の1945(昭和20)年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、14万人以上が死亡、8月9日には長崎に原子爆弾が投下され7万人以上が死亡。
同年8月15日には日本政府はポツダム宣言を受諾し、1941(昭和16)年12月に開戦された大東亜戦争(太平洋戦争)が終結した。

「太平洋戦争」とは、英米等にとっては第二次大戦の太平洋戦域の戦争の呼称で、日本はアジアにおける大東亜共栄圏の確立を目指すという意味で「大東亜戦争」と名づけた。
敗戦後に占領軍が「大東亜戦争」の呼称を禁止し、「太平洋戦争」を用いるよう強制し、マスコミがこれに従ったことから「太平洋戦争」という呼称が定着した。

日本にとっての「戦争」の時代として捉えるならば、日本にとっては最初「北支事変」と呼ばれ近衛内閣によって「支那事変」と名づけられた、宣戦布告なき戦争である1937(昭和12)年9月の盧溝橋事件勃発から第二次大戦に包括される「日中戦争」を加えると戦争期は8年の長期に及ぶ。
関東軍による中国満州進出の1931(昭和6)年9月の「満州事変」から数えると「十五年戦争」と呼ばれる。

「南京事件」とは、1937(昭和12)年12月の南京占領に際しての日本軍による中国軍、民間人の殺人、略奪であるが、犠牲の程度は「大虐殺」と呼ぶ20~30万人を頂点に1万人規模と推定するものもあるなど推定幅が大きく異なるが、虐殺、略奪はあった。
だが戦争に伴う虐殺、略奪は南京だけのものではない。日本軍だけではなく、後のベトナム戦争に至るまで戦争というものに付きまとう平時には想定できない不条理である。

戦争の犠牲者

先の8月15日、全国戦没者追悼式で、このたび辞意表明した安部総理が「あの苛烈を極めた先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました」と述べた。
日本人の戦闘員、民間人の犠牲者は、戦闘員230万人、民間人80万人の計310万人と推定されている。
戦闘員においても飢餓、病気による死亡者が160万人以上と推定されている。「戦場」とは「戦闘」だけではない。

但し、アジア戦線において中国、朝鮮半島、台湾、フィリピン、ベトナム、ビルマ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、インド、オーストラリア、ニュージーランドでは2千万人を超える犠牲者が推定されている。日本人の3倍近い。

戦争というのは一方だけに責任があるという単純なものではないことは確かなことである。
しかし戦争被害を日本人だけでカウントする約300万人とするのはいささか矮小である。

日本は戦後において先の大戦を「被害者の眼」で見る癖がついている。
確かに沖縄戦、空襲、原爆、満州からの帰国、シベリア抑留…といった被害は夥しい。これだけでも想像を絶する。
だが日本人が関係した戦争被害は約3倍に及ぶという実像はいやでも目に留めておく必要がある。

戦争責任

戦争の「加害」の責任を当時の東条英機を筆頭とする軍中枢部だけに負わせることは不当である。
戦争を「煽動」したのは軍部のみならずマスコミ、政治家、知識人そして庶民であった。

私は74歳。1946(昭和21)年の1月生まれであるから戦後に生を享けた。食糧難で育った世代である。
上京し大学生となった私の教師たちは「戦時中は軍部専制に従うしかなかった」と抗弁していた。
果して「犠牲者だらけ」だったのか、たとえ犠牲者であったとしてもそこに「悔い」はなかったのか、という疑問が渦巻いていた。
「仕方がなかった」とするのではなく、「悔い」としてとらえるのでなければ、戦後生まれの人間としても禍根を残すと考えた。

戦後75年。「戦争責任者」といわれる世代は生きていたとしても若い人でも105歳。ほとんどが鬼籍に入った。
でも歴史の中に生きるとは、何も知らない子ども時代、生まれる以前のことであっても、それを引き受けなければならないように思う。
自分が充分に引き受けて生きたかについては疑問符がつくところだが。

 

 

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/