内容
■COVID-19の現況とGoogle予測
新型コロナウイルス感染症は10月中旬より第3波に入っている。
感染者(陽性確認者)数は第1波、第2波を超えた。(下図は2020年12月23日厚労省)
死亡者数も増加している。
しかし、致死率は高かった第1波を下回っている。
Google予測COVID-19感染予測(日本版)
Japan:COVID-19 Public Forecasts
https://datastudio.google.com/reporting/8224d512-a76e-4d38-91c1-935ba119eb8f/page/ncZpB?s=nXbF2P6La2M
を見ると、12月23日~1月17日にかけての28日間の予測では、予測される死亡数1,121人、予測される陽性者数77,475人となっている。
1日あたり死亡40人、陽性2,767人。
12月10日の12月10日~1月13日の予測では、
予測される死亡数1,575人、予測される陽性者数121,518人、1日あたりの死亡56人、陽性4,340人であった。これよりは減少している。増加の波が少しなだらかになるという予測である。
一時はピークが1月4日頃と予測されたこともあるが、最新予測では12月20日から1月3日までは少し低下するものの、また正月明けより増加に転じ、ピークアウトは少なくとも1月中旬まではない、と予測されている。
100万人あたり陽性数で見ると、
12月10日時点では、広島、群馬、大阪、東京、愛知、埼玉、北海道、高知、兵庫…の順位で、地方が上位に入り込むこともあったが、
12月23日時点では、
東京、神奈川、大阪、埼玉、愛知、兵庫、千葉、北海道、福岡、広島…と完全に大都市中心に変化している。
政府は遅まきながら12月22日GoToトラベルの12月29日から1月11日の期間の適用一時停止を発表した。
■葬式は必要か?
前置き
ちょくちょくと週刊誌等の取材を受けているが、このところは「コロナ禍で葬儀はどう変わったか?」というものばかりであり、いい加減辟易していた。
いつも「葬儀が変わったのではなく、世の中が変わったことにより、葬儀も例外ではなく変化している」と回答し、コロナ禍以前の特に2000年以降の個人化の流れ(これも葬儀独自の流れではなく、社会の変化)について語り、コロナ禍で葬儀に見える変化を回答するのだが、取り上げられるコメントは、私が話さなくともよいものばかり。
きょうの取材は直球勝負、「葬式は必要か?不要か?」というもの。2010年代初頭に島田裕巳さんと繰り広げた、なんとも懐かしいテーマだ。
但し、当時は2010年以降個人化の傾向が顕著とはいえ、戦後高度経済成長からバブル期にかけての常識との間での議論であったが、今は個人化が定着している。
当時とは時代環境が大きく変化している。
自ずと問題のもつ意味も変化している。
誌面にはいくら話してもまともに取り上げられることはなかろう、という諦め感があるものの、概略以下のように述べた。
2014年に書いたもの
彼(島田裕巳)の提供してくれる話題(葬式は要らない、0葬)は、いかにもマスコミが取り上げやすいので、『週刊ポスト』と『週刊現代』がすぐさま取り上げている。
『ポスト』にしろ『現代』にしても、そのテーマを取り上げるなら、もう少し掘り下げがあればいいのにそれがない。
「売れればいい」式の安易さである。
また批判するほうにしても、「儀式は大切だ」「伝統慣習の大切さ」ばかりの薄っぺらなもの。
マスコミといっても「風俗」的関心と変わっていない。
どんどん議論の水準が低下している感じだ。
95年くらいには「個」という問題を背景に話題となり、議論となった気がする。
今やなんでもあり、を背景としているので煮詰まらない。
どうも「終活」にしろ「0葬」にしても、
「これ以上要支援の高齢者が出ると生きている者が迷惑するので、迷惑かけないように死んでね」
…とでも言っているかのようだ。
それが「大往生」とか「自由意思」のような看板の下で言われるものだから質(たち)が悪い。
「高齢者だから大往生」、というのは高齢者ではない者が高齢者をおじょくった言い方に聞こえてしまう。
「終活」は、高齢者が周囲に迷惑をかけずに生きて、死んでね、…という脅迫観念の植え付けではないかしら、と思ってしまう。
島田裕巳さんの主張の正当性と問題点
戦後高度経済成長期~バブル期は社会儀礼色が強い葬儀だった。
個人葬の会葬者200~300人、故人を知らない会葬者7割、葬儀はあたかも会葬者数、祭壇の大きさにのみ関心が集中し、葬儀の本質、質(クオリティ)が顧みられることが少なかった。
これへの疑問としてあった点はうなづける。
「葬式=仏教による葬儀」
というのは当時の常識ではあったが葬式の本質ではない。
大都市における宗教的浮遊層は「信仰」ではなく「慣習」として仏教葬を選択していたにすぎない。
葬式、葬儀とは死の看取りから葬りまでの全過程であって、儀礼である「葬儀式」に矮小してはいけない。誰の死でも葬儀はある。
超高齢者の死
2000年以降、特に2010年以降顕著に社会の個人化が進んだ。
超高齢者である80歳以上の死亡数は2018年人口動態統計(確定数)によれば全死亡数の64%で、「普通の死」の時代となっている。
江戸・明治・大正期は平均寿命40~50代、昭和初期では80歳以上の死は5%未満の稀少なものだったから、戦後日本は日本人の長い「人生観」をくつがえす時代となっている。
(65歳未満の現役の死は1割を切った!)
超高齢者であってもその生死(しょうじ)は「尊厳」が確保されるべきであるし、身近な者にとっては、それが少数であれ「大事」である。
そこをどうでもいいものとして軽視、否定してはならない。
葬式をすること
①死の事実に向き合い、事実を確認すること
②死者の人生と死者との自らの関係性を確認すること③近親者に起こる死による喪失・悲嘆(グリーフ)を大事にし、これを共有すること
④死者をよく知る人間が死者への弔いを表現すること
看取りからのこの葬儀のプロセスは近親者の心的プロセスにおいて極めて重要である。
葬式の方法は直葬、身近な者だけの葬儀、友人・知人を含めた葬儀、仏教に限らない無宗教を含む宗旨の選択、と多様だが、こうした機能は大切である。
葬式要・不要論で注意すべきこと
人の生死は個々によって異なる個別なものである。
これを一般論でもって「要」「不要」を論じ、他人に強制するものではない。
今の葬儀の状況を見ていると、実に多様な選択がなされていて、いわゆる「平均」的なもの、「標準」的なものはない。
人間の歴史の始まりから、民族も方法も規模も違えど、人の死にあたっては「葬り」は欠かせなかった。
それができなかったのは戦争、災害という非常時、社会的に差別等で孤立を強いられた者の死に対してであった。
「人の死」というのは、その人を囲む、必ずしも血縁に限定されない、関係において生じる「大事」である。
これに遭遇した者にとっては、方法は多様であれ、葬送は必要な行為である。
心配は「遺体の引き取り手のない人」が約6万人以上いること(超高齢者とは限らず40・50代が多い)。
これも人権を守るため行政の責任で「葬り」をしている。
実態は極めて不十分であるが。
生者の尊厳はもとより死者の尊厳も大事にされるべきである。
それは生きている間の社会的評価に左右されるべきではない。