起こったのは26日(金)の夕方だった。
買い物から帰り、椅子から立ち上がると、歩くことが自由でなくなった。
ふくらはぎが重く、まっすぐ立てない。
でも何とか、いろいろなものにつかまり、家の中は歩くことができた。
夜になると、立ち続けていられなくなった。
坐るとなんでもない。
上半身はまったく平気である。
歩く動作はさらに困難になったが、何かにすがりながら風呂にも入った。
痛さというのではない。
立つと痛いことは痛いのだが、痛さというより身体を持ちこたえられないという感覚が正確だ。
27日(土)になると、いっそう酷くなった。
相変わらず、腰かけては何ともないのだが、歩いて移動することはほとんどかなわなくなった。
杖というよりこれは完全な車椅子生活だな、と思った。
立っていることが10秒も無理である。
でも上半身は何ともないので、これからの講義は出向くことはできないがzoomであれば可能だと思ったので、そんなに影響はないと思った。
お金は痛かったが、さっそくzoomも有料契約にかえて、100人なら大丈夫な形にした。
こういう変更で楽観的だったのは、明らかに1年間のコロナ禍でのオンライン環境だ。
激減した講演のいくつかはオンラインで行った。
PowerPointを使うのもオンラインの方が便利だと思った。
この間に取材を受けるにもzoomで受けることが多くなった。
耳も少し遠くなっているので、会って話をするより楽になっているからである。
もちろんリアルで会うことの大切さはわかる。
先日も新幹線で出向き相談に乗ったが、先方の実際の意向を訊き出せたのは、120分以上話した後だったからであり、その間のあーでもない、こうでもない、という漠然としたやりあいの末に先方の意向が形になるということを経験している。
話の行方が見出せないときは、顔を突き合わせての試行錯誤は有効である。
何となく出てくる話もリアルだからというのはある。
しかし、話すべきことがわかっているときにはzoomでいいし、むしろ適している。
だから仕事的には「困る」という感覚は全くなかったのだが、「日常生活」ということでは「困る」のだ。
といっても私は後期高齢者であり、「現役」ではない。
「動く」といっても知れている。
身体全体がやられているわけではないので、這えばトイレにも行けるし、狭い浴場ではすがる場所もあるし、背の高い椅子も用意しているので入浴には支障がない。
「まだ何とかなる」のだ。
だから悲観的になることはなかった。
おそらく私のこれまでの人生の身体状況というのは恵まれすぎたのであろう。
精神的には酷い鬱も体験し、こちらはあまり楽ではなかったのだが。
私にとっては長い時間だったのだが、そして今後は「歩く」ということを断念しなければならないかも、と思ったのだが、まだ確かなことではないのだが、どうもそれほど深刻ではなかったようだ。
今朝(28日)6時にトイレに行こうとして、布団から這い出たが、立ってみると、不安定さは残るものの、短い時間であれば何とか歩けるではないか!
外出が可能になるかは不明だが、家の中の移動は何とかなりそうである。
昨日は近くの整形外科に行くのも危ぶまれる状況だったが、今朝の状態であれば杖を使えば行けそうである。
明日には何とか整形外科に行こうと思っている。
私の「歩行困難者」という当事者体験はどうも短く済みそうである。
もっとも後期高齢者である私は、今後これが「日常」になるのを覚悟すべきなのだろう。
目前に迫ってくると、愕然としてしまうだろうと思います。回復兆しが見え少し安堵しています。私も、これから少しづつ体験していくのでしょうね。
どうぞご自愛くださいませ。
投稿楽しみにしています。
梅田さん ご心配おかけしました。
後期高齢者ですから、こうしたことが、普通に起きると覚悟して生きるべきなのでしょう。
その後いかがでいらっしゃいますか?
1日だけの当事者でお済みになって、快方に向かわれますよう願っております。
私も時々原因不明の痛みなどありますが、大事に至っていないので、これも年のせいかと・・・。
碑文谷さんのお話、同学年としては身につまされます。
くれぐれもお大事になさってください。
ご心配ありがとうございます。その後は順調に回復に向かっています。
年齢からですね。中野さんもお気をつけて。