【本稿についての注】
実は今回の原稿は7年前の2014年に書いたものである。
その頃、単行本の企画があり、その一部として書いたが、出版社が脱稿寸前に出版中止としたため、世に出なかった原稿である。
中小出版社の厳しい環境については熟知していたから、このことについて恨むことはなかった。
当時に比べて葬送の個人化はいっそう進行している。
2020年3月からのコロナ禍は2021年8月第5波を迎え依然として進行中である。
これが葬送にどういう影響を与えるかは不明である。
このところ「散骨に関するガイドライン(散骨事業者向け)が公表されたことから、散骨について書いてきた。
その中で触れなかったのが、葬送の自由をすすめる会の二代目会長であった島田裕巳さんが提唱した「0葬」についてであった。
島田さんは葬送の自由をすすめる会に再びスポットを与え、会の再興を図ろうとしたのであろうが、旧来の会員の反発を受け、会長を辞任し会を去った。
島田さんは散骨(自然葬)を「葬送の簡素化」の流れで捉えたが、旧来の会員は「自然回帰としての葬送」の流れで理解していた人が多かったのだろう。
2014年当時、島田さんの「0(ゼロ)葬」を私はどう受けとめたかをここに何回かに分けて紹介しておこう。【お断り 肩書・データは執筆当時のまま】
内容
「0(ゼロ)葬」の登場―葬送の変化を検証する
「葬送の自由をすすめる会」の2代目会長にして宗教学者である島田裕巳が「0(ぜろ)葬」を提案した。
「0葬」とは焼骨の骨上げ(拾骨[しゆうこつ])を行わないことをいう。
「葬送の自由をすすめる会」内はもちろん、大きな話題になっている。
いわば究極的な葬法である「0葬」の提案を受け、葬送の変化を検証したい。
1「0葬」登場の背景
①何が基準か―葬送の変化と非論理性
友人からメールがきた。
「葬と来て今度は「0葬」とか。葬送はどこまで変わろうとしているのでしょうか?死者の弔いは不要だと言うのでしょうか?」
葬送の変化の行方に不安を感じている人は多い。
それは宗教者、葬祭業者、石材業者、墓地業者、仏壇仏具業者といった直接的に関係する人たちだけではない。
これまでの死者の葬りとその後の供養について共通理解であった「慣習」が崩れ、困惑している生活者がいる。
他方で、葬式や墓といったことへ馴染みが少ない人たちは、より簡便で、わかりやすい葬法と、登場を歓迎しているむきもいる。
ある人たちは、
「葬法について知らない人たちが増えている。もっと宗教界等は正しい葬法について教えていかないといけない。こうした混乱の責任は、正しい葬法について教えていない宗教界にある。」
と述べる。平たく言えば「僧侶の怠慢」ということだ。
宗教界にいる人たちが「正しい葬法を教えられる」状態にあるかは極めてあやしい。
現にあちこちで「正しい」とする誤った意見が横行しているからだ。
「人の死」があって葬儀がある、ということを理解できていない僧侶が多すぎる。
固有の人の生と死に対峙しないで行われる葬儀ほど空しいものはない、と私は思っている。
しかし、仏教寺院を中心とする宗教界を弁護するわけではないが、この情報社会にあって、仏教寺院の情報発信量の少なさは否めない。
そこで宗教界からは
「変な情報を垂れ流すマスコミが悪い。」
という批判が出る。
「葬送慣習がややこしい」、「費用が不透明」、と煽ってきたマスコミは、どうしても新規話題の登場を歓迎する傾向にある。
そのため見た目の新しさがあればマスコミ登場の機会が多くなる。
それはしばしば実際の需要とは必ずしも一致せず、「情報のための情報」もある。
私が立ち会った一つの例をあげよう。
もう10年以上前になるだろうか、NHK「難問解決―ご近所の底力」で墓を取り上げた時に、「墓友(ハカトモ)」という新語が出てきた(私もその番組にコメンテータとして出ていたので責任はあるが)。
当時、永代供養墓の会員相互においては生前交流の機会はあったが、それはコミュニティに代替するほど大きなものではなかった。
ちょっとしたサークル程度のものであった。
永代供養墓を求めた人たちのことをテレビで絵にするために、担当ディレクターが東京・新宿の東長寺「縁の会」の会員の合唱サークルを取り上げた。
その会員相互の関係を「ハカトモの関係」と会員に言わせた。
言っておくが会員の自発的な語ではない。
「墓友」は、ディレクターが番組の主旨から、演出上作成した語である。
その番組の主旨は地域共同体の活性化であるが、地域以外にも共同体づくりをしている例として、墓をテーマとしたために作り出したのであった。
NHKは、それが新語として以降話題になることを狙ったのではなく、番組の主旨とつなげるための苦肉の策であった。
マスコミはどこかが新しい動きをすると、雑誌、新聞、テレビ、ラジオと次々と取り上げていく。
出尽くすまでに1年くらいかかる。
「ハカトモ」という語にインパクトがあったのか、実態よりマスコミ先行で話題となり、私のところにも数社が取材にやって来た。
しかし、「ハカトモ」をテーマとすることを取材前に決定して記者たちは来ているものだから、(実際の需要より情報が先行しているという)私の意見が記事に反映することはなかった。
また、マスコミが葬送をテーマとするとき、そこで出てくる「専門家」なるものの低質さは目を覆うものがある。
ほとんど勉強した形跡のない者がにわか「専門家」として発言している。
質を問わないマスコミの情報の垂れ流しが、葬送についてもあったのは明白な事実である。
もちろんマスコミが流す情報がすべて間違っているわけではない。
②『墓は、造らない』
今回「0葬」を唱えた島田裕巳(宗教学者、元日本女子大教授、特定非営利法人葬送の自由をすすめる会会長)は、東日本大震災の直前の2011(平成23)年3月5日に大和書房から『墓は、造らない』という本を出している。
前年にベストセラーとなった『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)の、まさに二匹目のドジョウ狙いの本である。
そこで彼はこう述べている。
「自宅や車のなかなど、さまざまな場所に骨壺を置いているものの、その処置に困っている人たちは、納める先のない骨壺をもてあまし、ただただ困惑するしかない。
死者が出たら、それを火葬して、骨壺を墓に葬らなければならない。
多くの人にとっては、それは当たり前のことで、格別問題を感じないのかもしれない。だが、それは墓があってのことで、もし墓がなければ、相当に厄介な事態がおとずれることを覚悟しなければならない。」
島田の論法の特徴をなすのは「以前は問題にならなかった」が「時代が変化して厄介な問題」になった。
システムやしきたりには「そうたいした歴史性がないのだから変えればいい」、というものである。
そして一貫しているのが次の言葉である。
「生きている者の生き方が、すでに亡くなっている人間の葬り方によって振り回されるのは健全なことではない。それは、死者が望むことではないはずだ。」
私に言わせれば、
死者のことが「迷惑」になるのは異常である。
せめて人の死、身近な者の死である二人称の死、リアルな死に出会った時くらいは死に対峙する体験をもたないと、その人のいのちについての考えは軽薄なものになる
と思うのだ。
葬送のシステムや慣習上の問題もあるだろうし、送る人にも問題があるだろう。
原点から見直してみる態度が重要でないだろうか。
そのためには葬法をいったん反故にするという島田流もあるかもしれないが、それは方法論の問題で、方法論が即結論、たとえば「0葬」という提案になるというのは飛躍が大きすぎる、と思うのだ。
③「安い」は基準か?
たとえば、島田は、
「檀家制度が墓、葬式を結びつけてきた。今、都会では脱檀家が進んでいるのだから、檀家制を根拠とするものは破棄してかまわない」
と主張する。
葬式についてもそうだが、墓についても価格が「高い」ことが問題とされる。
今、葬式はもとより、墓についてもさまざまな選択肢が広がっている。
その選択はそれぞれの死生観、考え方、経済力で決められていいと思う。
しかし、単に「安い」ことを判断基準にするのは奨められない。
もちろん、1991(平成3)年のバブル崩壊以降に進む経済格差の拡がりは考慮されるべきである。
「金」があるか否かで葬送されるかどうかが決定されるべきものではない。
金がなくとも、尊厳をもって適切に弔われ、葬られる権利があらゆる死者の権利として定まっているべきである。
残念なことに、「安い」ことが単なる死体処理に限りなく近づく例がたくさんある。
それは事業者によってであったり遺族によってである。
現に、「安い」葬儀価格を売り物にしたネットワークの利用者からの、「こんなこともできなかった」という単なる「処理」にすぎない葬法へのクレームが多すぎる。
消費者の「わからない」ことを利用したあくどい商法もまた出回っている。
島田は、価格が「安い」墓や葬儀が出回っていることは承知しているらしいが、そこで出ているクレームはあまり承知していないようだ。
本稿は、戦後の高度経済成長期からバブル期に至る、ある意味ではばかげた墓、葬儀を弁護するものではない。
その時期に一部の事業者が行った「儲け」を目的とした事業の歪みは当然正されるべきである。
また、社会自体が経済成長に浮かれ、死、死者に対峙するのではなく、見栄にはしった愚も反省されるべきである。
(続く)