近親者の悲嘆への配慮―死者を弔うこと

■近親者の悲嘆への配慮

・死別と悲嘆

葬式の機能を絞れば、一つは「死者(遺体)の尊厳を守る」ことで、もう一つが「近親者の死別の悲嘆への配慮」である。

「死別bereavement」とは近しい、大切な人が死亡することによって別れをよぎなくされることをいう。

死別によってもたされる深い悲嘆を「グリーフgrief」と言う。

悲嘆(グリーフ)には、悲しみだけではなく、不安に陥る、ショックで心が麻痺する、無気力になる、抑うつ状態になる、焦燥感を抱く、孤独感を深める、怒りを覚える、落ち着きがなくなる…等のさまざまな感情、心の動きがある。

グリーフは、大切な人と死別し、喪失したのだから、しばしばその悲嘆は酷く、厳しいものとなる。
しかし、こうした死別によってもたらされた心の傷(いた)みは、極めて人間的な、あたりまえの感情である。
それ自体は病気ではない。
だが、それが手酷いものであったり屈折したりすると、心的障がいにつながることもある。

いずれにしても大切な人との死別は、大小は異なるものの、その人と共に生きた自分の「小さな死」を体験することでもある。

「死別」はさまざま、個々によって異なる。
したがってそれによってもたらされるグリーフもさまざまで個々によって大きく異なる。

死別の状況、人間関係、それぞれの個性によって大きく、また個々に異なる。

 

・グリーフワーク/グリーフケア

死別によって分かたれた死者との関係を心的に埋めようとして行う近親者の作業を「喪の作業(グリーフワーク)」と言う。

周囲の人間が悲嘆や喪失に陥った人を支援すること(grief and loss support, grief care)は特別なことではない。
グリーフに陥った人の喪の作業がそれぞれなりに行えるよう配慮する、準備をすることである。

誤解されるべきでないのは、グリーフケアが最も大切なことではないということだ。

近親者らのグリーフワークが充分に行われることが重要なのだと私は思う。

グリーフケアは誰かの仕事であったり、それによって死者の近親者の悲嘆を劇的に改善するものではない、ということである。

多くの場合、近親者の悲嘆の助けになるのはきょうだいらの家族や友人である。

しばしば身近にいる人が最も有効な助け手になる。

しかしそうしたサポートを得られない人もいる。
そうした人に対して、本人が必要とするならば、その本人に必要なサポートを提供できる用意のある人が手の届くところにいる、と示すことは有効なことだろう。

・喪の作業を邪魔する葬儀慣習

近親者の喪の障害になるのは、しばしば葬儀慣習である。

親は子の火葬には立ち会えない、納骨は四十九日までに終えなければならない等、およそ根拠のない、当事者の気持ちに委ねるべきことが慣習にはある。
そうした喪の作業の障害になる慣習を正していくだけでも近親者には益になるだろう。

1985年以降、ターミナルケアへの関心の増大から、「ケア」に対する関心も大きくなった。
とはいえ、日本社会はこれまで死別の悲嘆にあまりに無頓着な社会であったと思う。
そうした事情も今日グリーフへの再認識を迫っているのだろう。

しかし、グリーフケアは重要であるが、ささやかなものだという認識もまた必要ではなかろうか。

■死者を弔う

1995年の阪神・淡路大震災でも、2011年の東日本大震災でも遺族たちがとった原初的な行動は、死者を弔うことであったように思う。

・阪神・淡路大震災で見た小さな祭壇

家族を喪い、混乱していた遺族等にとって、少し落ち着いた時に感じたのは死別という自分を圧倒する事実であった。

彼らにとって、祭壇がどうの、あるいは最近の家族葬がどうの、ではなく、「死者を弔うこと」は遺族としてまずすべきことであった。

東日本大震災では、行方不明でそれすら曖昧にされた人たちも数千人に及んだ。

私は、阪神・淡路大震災発生直後に、焼け野原となった神戸市長田地区に足を踏み入れた時、焼け跡のそこかしこに、板切れに牛乳瓶に生けられた一輪の花、そしてペットボトルに入れられた水が載せられてあったのを見た。

おそらくその場所でいのちをなくした人に供えられたのだろう。
その小さな小さな祭壇が輝いて見えたことを思い出す。

また負傷した人が、大阪等の設備の整った病院に移るように勧める医師に、被災死した家族の弔いがまだ済んでいない、と強固に断わった姿に、家族を弔う想いの強さを見た。

・東日本大震災で見た拾われた家族写真

東日本大震災でも、そうしたことがそこかしこに見られた。

瓦礫の中から見つかった犠牲になった家族の写真を撫でるようにして見ていた遺族。
町が根こそぎ流出した様を高台から見ながら祈っていた子どもや家族。
無名の僧侶たちの死者を供養する読経の後ろで手を合わせていた人たち。
あるいは遠隔地の火葬場に深夜出かけた先で僧侶が待っていてくれて、おずおずと申し出た読経に感激したこと。
これらは遺族の死者を弔う想いに重なったからではないだろうか。

・葬式は「区切り」か?

遺族等にとって死者を弔うことは死者を胸に刻みつける行為のように思う。死者を忘れるためにではなく、より強く死者を自分の心に刻む行為だと思う。

東日本大震災で宗教者たちが「区切りのためのお葬式」と言っていたのには大きな違和感を覚えた。

確かにグリーフワークの出発点は死の事実を否定するのではなく確認するという、遺族にとっては辛い作業にある。

しかし、それはそれぞれの遺族がそれぞれのペースで行えばいいことである。

葬式や法事で遺族等にとって必要なことは手順や知識ではないと思う。
手順は葬儀の担当者が寄り添って不安のないようにすればいいことである。

大切なのは遺族等が通夜や葬儀の場でしっかり死者に向き合い、死者を弔うことである。
支援者である葬儀の担当者はその環境を用意することであろう。

葬儀社の担当者は、遺族等が来賓や会葬者に失礼がないように振る舞うことではない。
あくまで遺族等が弔いに専心し、自分たちが弔ったと思える環境を用意することではないだろうか。

・葬儀不信、簡素化を願う高齢者たち

現在の葬儀不信、簡素化は伝統的慣習を知らない若い世代のものと推定されることが多かった。

だが、2011年の経産省の調査によれば、特に70代以上の高齢者に顕著だということが判明した。

高齢者は子どもたちに迷惑をかけたくない、という意識が強いものがある。

高齢者には、自分たちが親を送った時は社会儀礼色が強い葬式であったので、あのような遺族等が弔いに専心するのではなく、お客に気を遣うだけの葬式に悔いがあり、同じ想い、体験を子どもたちにさせたくない、という想いを抱く人が少なくないように思う。

僧侶も葬儀社も葬儀の主役ではなく、サポート役だということを知ることが大切である。

最近は遺族の考えを尊重する宗教者や葬儀社が出てきているが、遺族の想いを知ろうとしないで葬儀を勤める宗教者がまだいることに驚く。

死者のこと、死者に対する遺族等の想いを知らないで葬儀をしようというのはあまりに葬儀を冒涜した行為であると思う。

・僧侶派遣プロダクション

もっとも遺族の中には、「葬儀の格好をつけるために僧侶を呼ぶのであって、何宗の僧侶でも料金が安ければいい」と思う人も少なくない。

これが派遣僧侶プロダクションの暗躍の温床になっていることは事実である。

葬儀社にも僧侶を呼ぶことの意味を語り、派遣僧侶プロダクションはせめて利用しない、という見識が必要であると思う。
もっとも事前に遺族等がネットから僧侶派遣プロダクションに頼んでしまっている、というケースもある。

僧侶の中には、仮に布施が安かろうと、遺族に弔う気持ちがあれば行く、という見識をもった僧侶はいるはずである。
派遣僧侶にもいるだろう。

葬儀社は、その場合に布施の中から斡旋料を抜くのではなく、斡旋をお客が依頼するならば、適切な範囲の紹介料をお客からもらうというのが筋だろう。

本来死者を弔うべき葬儀が、弔うこととはまったく無縁なビジネスに汚されている状況は脱する必要がある。

・遺族等の考え、精神状況は多様かつ個別的

葬式を出す、出さないだけで遺族等の考え、精神状況を憶測できない。
遺族等の考え、置かれた精神状況は多様で、個別的で固有である。
また表面の表情からわかることでもない。

実際に多様なのだから、勝手に憶測して、わかったかのような対応はしてはいけないと思う。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/